たまこまーけっと 死と再生と商店街

たまこまーけっとをようやく全話観たので。ちょいと書いてみる。


作品は、現代の商店街が舞台で、あの鳥以外にはこれといってファンタジックな道具立てがない。ということで、「けいおん」的な日常系作品なのでは、というのが最初の印象であったが、全話見終わって振り返ってみると、なかなかどうして、象徴的な意味構造が作品全体を覆っていて、まあ、なんというか神話的な作品といっていいのではないか。
けいおん」の時に原作の制限でできなかったことを、オリジナル作品ということで思いっきりやったのではないか、と思える。


実際に作品を見れば、ウェルメイドな、現実感のある空間を描いているアニメーションという印象があるわけだが、そういうイメージを保持しつつも、描写や物語に動きを与えられるような背景の意味構造もまたしっかりと構築されている。デラを始めとする非現実的な道具立てを縦横に使って作られたこの意味構造によって、作品の完成度(完結度)が高くなっている、という感じ。


以下、作品の意味構造みたいなところを追いつつ。

母について

本作は、北白川家という家族の物語であるわけだが、そこには母の不在という大きな特徴がある。
作品において、北白川母に直接的に焦点に当たったエピソードは、4話のあんこと祭りのエピソード、9話の豆大の歌のエピソードとなる。主人公たるたまこが、母についての思い出を語るシーンはまとまった映像としては出て来ない。また、1話や最終話のように、たまこが母のことを語ろうとすると、デラをはじめとする周囲の人々が、過剰気味にこれに反応して語りが進むのが遮られる。
4話にあんこと母が会話しているシーンが回想されている以上、たまこに母との思い出がない、とは考えられない。また、たまこが母の歌を口ずさんだり、母に花を供えたりするシーンはあるわけで、たまこと母の関係が弱いというわけではない。現在の北白川家では実質的にはたまこが母親役をやっているわけで、「普通に」考えれば、たまこと北白川母のエピソードはもっと多く提示され、母役の継承者としてのたまこのエピソードがあってもおかしくないはずである。
だが、作品の方では、たまこが母を思い出すシーンは意図的に抑制されているように見える。


これは、本作における北白川たまこのロールは何か、という問にもつながる。
作中におけるたまこの有り様はどうであるか? 少なくとも、家を守る女性、という意味の「母」としては及第点にあると言えるだろう。また、将来に対する不安、「家」や「旧いもの」、「自分を縛るもの」への反発心が見られず、この点では若者らしさ、少女らしさがない。一方で恋愛に関しては鈍感もいいところで、この意味では少女以前の子供である。つまりは、一種のスーパーマン、かつ、異形的な有り様をしている(たまこに欠けている少女性は、むしろあんこの方に強く見られる)。
このたまこの有り様は、「母を失った少女」である以上に「母」そのものである、と言える。見方を変えれば、たまこ=母、という像がまず最初にあり、これをブレさせないために彼女が「娘」として描かれるシーンを作らなかった、とも言えるのではないか。


聖なる異形、「処女母」としてのたまこ。
彼女はうさぎ山商店街の象徴であり、うさぎ山商店街は彼女の家=内的空間である。処女母として完結したたまこには、生と死が欠落しており、それ故に第一話で彼女の誕生日は祝われない……とするのはさすがに飛ばしすぎかもしれないが。この異形的な完結性に変化を与える契機となるのが、異界からの来訪者であるデラ、となる。


南の島の人々

南の島の人々、及び、デラは、本作におけるファンタジー的・非現実的な要素となっている。
デラは、狂言回し、あるいは物語の歯車を回す役としてとりあえず便利ではある。物語を進める上での実用性という点では、デラを出す意味は大いにあると言える。では、なぜ「南の島」なのか。そして、「お妃を探す」というのはどういうことか。なぜ、それがこの作品で意味を持つのか。


最終話がこのあたりを描くエピソードになるわけだが、端的に言えば、南の島は商店街の「外」で、お妃になるということは、たまこが商店街からいなくなる、ということである。
ここでもう一段つっこむ。「お妃になる」という言い方、デラの恋愛脳からのイメージで、南の島=「外」に出ることが、少女が恋を経て女性(母)になることであるかのように錯覚される。だが、実際のところ、いかにデラが恋愛脳であったとして、王子とたまこの間に恋愛が発生するだけの経緯があったわけではない。南の島の人々がやっていること(やろうとしたこと)は、一方的なたまこの略奪である。
黒い衣を着て、異界から現れて、理由もなく人を奪い去るもの。つまるところ、南の島の王子は、死神の役回りを持っていると言える。
ならば、最終話におけるたまこの嫁入りの話は、恋愛の話ではなく、北白川母の死の再演だったと言えるのではないか。


最終話が恋の話ではなく死の話であると見た場合、デラ、および、チョイの役回りはどう見れるか。
チョイはいかにも人間的な少女である。王子に恋しており、たまこや北白川家の面々を好ましく思っている。家族等の背景は不明。占い師を生業としている。
最終話において、チョイは、たまこが王子の妃であるかを占わずに決めた、と自白している。言ってみれば、チョイが最終話付近のたまこ嫁入り騒動の元凶である。
普通の少女という点ではチョイはあんこと対になるのかもしれない。或いは、たまこがそうなれなかった「普通の少女」の姿か。チョイの「母恋い」の思いが商店街からたまこを奪うことになる。それはたまこ・あんこ姉妹が表に出していない「母恋い」の裏面での発露と見れなくはない。
チョイが本格的に登場するのは7話になる。うさ湯、北白川家の風呂で溺れて湯に沈むチョイの姿は、水底の少女のイメージを成す。この後、商店街には魚のイメージが度々現れる。10話からは商店街のアーケードに巨大な魚のオブジェが現れ、商店街は水底の様相を強く帯びてゆく。これはチョイ、王子の来訪により商店街が水底化=異界化した、とも取れるし、チョイが商店街=水底=異界にやって来た、とも取れる。チョイとたまこの関係は、たまこと北白川母の関係と重なり、商店街と南の島に彼岸と此岸の円環的な図を描くようである。そういう動きの当事者でありつつ、占い師としての超越的な視点も持つのがチョイの役どころである。


デラはどうか。デラは来訪者として現れ、物語の歯車を回す役となっている。
デラの性質は、生を肯定する者、祝福する者、と言えるだろう。奪うもの、与えるものではないが、生きている人間の背中を押してやるものである。
王子とデラは対の存在と言えるかもしれない。王子の存在は社会的であるが故に人間的でなく、その裏面としてデラが人間的であるものとして振る舞う、と。


死と再生

王子の来訪を受けての最終話の流れはどうであったか。
死神たる王子の来訪。たまこの商店街への思いの吐露。これを聞いたデラによる王子への陳情。そして、たまこ自身による婚姻の拒絶。
たまこが自らの意志を表すことで、王子はあっさりと引き下がる。


王子の来訪により、たまこは何かに直面した。そして、たまこが決断した何かによって、何かが変わった。
そういうことであるが……それぞれの「何か」の中身は何なのか。
王子の来訪により、商店街の面々はうさ湯に集まる。商店街にはシャッターが降り、たまこはここで母の死の光景を、さらには、商店街そのものの死の光景を幻視する。たまこが直面したものは商店街の死である。そして、商店街の死を避けるために、たまこは婚姻を拒絶し、王子は引き下がった。
一連の行動をたまこの側から見ればこうである。だが、因果関係を考慮するにあたって釈然としないところがある。商店街の死を避けるために変わらなければならなかったのは本当にたまこ自身だったのだろうか? たまこを異界=南の島に連れて行こうとした意志の持ち主は誰だったか。チョイということにはならないか。
先に見た通り、水底の少女たるチョイの「母恋い」の願望が、終盤の婚姻騒動の原因となっている。このチョイの願望は、表立って描かれていない、たまこの北白川母への想いの鏡像であると見れる。この見方に従って、視点をスライドさせてみれば、たまこ=北白川母、チョイ=たまこ、となる。ややこしい話であるが、たまこはたまこ自身と北白川母が同時に重なっている人物であるかのような像となる。


再度見なおしてみよう。
チョイ(たまこ)の「母恋い」の念が、王子による迎えという形を取った。これは即ち、異界においてチョイ(たまこ)とたまこ(北白川母)が一緒にいられるようになるという、「母恋い」願望の短絡的成就である。だが、この形での願望成就は、商店街の死につながる。この葛藤が、たまこ=チョイの直面した「何か」である。
そして、たまこの独白において、「母」は異界ではなく商店街の中にこそある、ということが再確認される。だから、たまこ=チョイは異界行きを断る。
これは、たまこの北白川母(および商店街)との関係の再生と見ることもできるだろう。
異界=水底の世界からの使者との対峙(それは、自分自身が水底の世界の使者でもあるような多重的な構造を取っている)、この対峙を経て、新たなる自分自身の生の生き直しが始まる(処女母の異形性からの脱却)、そういうイベントであったと見れる。
この再生劇は肯定者・デラによって祝福される。そして、異界におけるもう一人の自分=チョイとの別れによって幕を閉じる。


たまこの再生は、また、一年の終わりと始まりにも対応する(これは作品時間の始まりと終わりでもある)。
死と対峙して再生したことで、たまこ自身の時間が動き出し、誕生日の祝福が行われる。これは完結性・永遠性が失われ、普通に生きる人間としての、生、成長、老いが始まることを含意する。
たまこを祝福するのは、大路もち蔵と帰ってきたデラである。
大路もち蔵を、南の島の王子の裏面と見なすことは可能であろう。婚姻の二つの側面、あるいは、たまこ=チョイのそれぞれから見た婚姻相手のイメージ。
たまこが一人の人間に生まれ直すことで、商店街を舞台にした恋愛劇がようやく幕を開けた、と言える。今度こそ、デラの祝福を受けてもち蔵が男を見せてくれるのでは……と期待させてくれる終わり方である。


商店街世界

北白川たまこはいかにして商店街に母を再発見したか。終盤のくだりは、こうも言えるだろう。
実際には、異界=南の島の人格、チョイを構築し、チョイの視点で商店街を見つめることで、母をまず発見した。そして一人の人間として商店街を見つめなおすことで、異界を経由せずに母を再発見することができた。
これは即ち、非現実的でない、現実的な空間であるはずの商店街が、非現実的な物語である異界の概念を内包している、ということの再発見でもある。生き直すに足る、豊穣な物語を含んだ時空間としての商店街という現実世界。たまこを取り巻く商店街の人々は、最初からそういうことが分かっていたのだと思えば、また感じ入るところもある。
行きて帰りし、美しい物語であった。