艦これにおけるキャラクターの生と死の表現

概要と目的

艦隊これくしょん(以下、艦これ)を最近よくやっている。

艦これがコレクション型のいわゆるソーシャルゲームの流れを汲んでいることは間違いない。F2P、キャラクターの収集要素は、従来のいわゆるソシャゲからそのまま引き継いだものと見られる。
ただ、艦これの場合は、従来のいわゆるソシャゲが肌に合わなかったユーザーにおいても好意的に受容されているように見える。というか自分がそうなのだ。主観的な意見として、艦これは従来のいわゆるソシャゲよりとっつきやすかった。
この「とっつきやすさ」がどこから来るのかについて、以下、順に考察してみたい。


なお、「従来のコレクション型のいわゆるソーシャルゲーム」として想定しているのは、ドリランド、モバマスパズドラ、くらいである。艦これはソーシャル要素(プレイヤー間の人間関係を取り入れたシステム)が希薄であるため、ソーシャル性は考慮しない。以降、上述のタイトルと同等のシステムをもつものを「(従来の)コレクション型ゲーム」と呼ぶことにする。




艦これと従来のコレクション型ゲームとの差異

艦これは基本的には「よくできたタイトル」であると言える。
ここで「よくできている」と言っているのは、主にシステム・UIまわりについてで、例えば以下の点である。

  1. ゲーム内世界のイメージのしやすさ。図像、テキストによる世界表現の仕方。
  2. 演出、アニメーション、サウンド、音声の使い方、丁寧さ。
  3. プレイヤーへの提示情報量のコントロール。段階的な情報開示の仕方。
  4. プレイヤーに発生する操作量のコントロール。プレイのテンポの良さ。


一応、1だけ補足を入れる。
これは、ゲームの全体像や、各要素(画面、シーン)のつながりがどれだけプレイヤーにとってイメージしやすいか、ということである。
艦これの場合は、そもそも現実の地域や艦船をモデルにしていることが明確なので、プレイヤーがゲーム内に記号的に出現する図像・テキストから現実の事象をイメージしやすい。つまり、細かい説明を省略してもプレイヤーが付いてきやすい。
また、画面の表現上も、海=外界=戦場 と 母港=屋内=キャンプ と、画面の機能と場所のイメージが合致するような作りになっている。空間のイメージでゲーム内世界を捉えやすくなっていることで、とっつきやすさが確保されていると言える。


で、この1〜4の要素だが、これが艦これと従来のコレクション型ゲームとの決定的な差異になっているかというと否であろう。
実際、この1〜4の点については、パズドラも十分なレベルでこれを満たしていると思われる。
3、4は、ブラウザベースのコレクション型ゲームでも十分満たせていて、1、2は近年のネイティブアプリ系のコレクション型ゲームでは十分対応できているのではないか。
「よくできている」以外の部分で、艦これと従来のコレクション型ゲームの間の大きな差異がどこにあるのかというと、コレクションの対象たるキャラクターの扱いではないか、と思われる。


以降、キャラクターの扱いに着目して話を進める。


キャラクター生成・消滅システムの比較

キャラクターに関するシステムで、艦これに特徴的な点は以下ということになるだろう。

  1. ガチャがない
  2. レアなキャラクターでもドロップ or 建造により入手可能
  3. 戦闘でキャラクターがロスト(撃沈)する


では、これらのシステムが稼働した結果どういう現象が発生するのか、また、それらを貫くコンセプトは何か。


上記の「特徴的な」システムはキャラクターの生成・消滅に関わるものである。
以下、艦これとパズドラにおけるキャラクターの生成・消滅について比較してみる。

パズドラにおけるキャラクターの生成・消滅

まず、パズドラの場合、キャラクターはドロップ、または、ガチャによって生成される。
ガチャはゲーム内ポイントによるガチャと、現金相当のポイントによるガチャの大きく2種類に分かれる。
キャラクターの消滅は、合成または売却によって起こる。これはプレイヤーの操作によってのみ発生するもので、プレイヤーが意図しない形では発生しない。


では、生成・消滅の頻度はどうか。
ドロップによるキャラクター生成は、ゲームの進行と並行して自然に起こる。ガチャをやるかどうかはプレイヤー次第である。
合成によるキャラクターの消滅は、ゲームの最初期から発生する。これは、あるキャラクターを成長させるには合成により他キャラクターを消費しなければならない、というシステム上の必然によるものである(確か、チュートリアルでも合成をやる手順があった気がする……うろ覚え)。また、キャラクターの保持可能数も初期値は20と少なく、普通にプレイしていればすぐにいっぱいになってしまう。これも、プレイヤーによるキャラクター消滅操作を促す措置である、と見れる。


以上から、パズドラにおいては、キャラクター消滅の頻度は、キャラクター生成頻度とほぼ同数か若干下回る程度になる、とみなせる。
つまり、パズドラに代表される従来のコレクション型ゲームでは、キャラクターを消滅させる操作は「プレイヤーが必ず行わなければならないゲームの主軸となる操作である」と言える。これらのゲームでは、キャラクターを集め、選り分け、消費する、ということが一連のプロセスとして行われる。

艦これにおけるキャラクターの生成・消滅

一方で、艦これの場合はどうか。
キャラクターの生成は、ドロップ、または、建造によって行われる。ガチャが建造に変わっている点以外はパズドラと変わらない。
キャラクターの消滅は、合成(近代化改修)、解体、撃沈によって発生する。撃沈がある点は異なっているが、合成・解体がプレイヤーの操作で発生する点は一致する。


では、生成・消滅の発生頻度はどうか。
生成についてはパズドラと同様である。ゲームが進行すればドロップでキャラクターは生成されるし、プレイヤーが建造を行ってもキャラクターは生成される。
だが、消滅の頻度は異なる。まず、艦これのキャラクター保持可能数は初期状態で100件と多い。キャラクターの種類数が130前後なので、1キャラにつき1体保持するのであれば過半数が収まる。また、キャラクターを成長させるための主要な手段は戦闘への出撃による経験値集めであり、キャラクターを消費しての合成は成長に必須ではない。チュートリアル的に「合成せよ」と指示されることもなかった、と思う……確か。


上記から、少なくともゲームの初期段階でのキャラクター消滅頻度は相当低いはずである。
もちろん、ドロップによるキャラクターの生成・入手があり、キャラクター保持可能数が有限である以上、インベントリの圧迫に対応するためのキャラクター消滅操作が発生することは避けられない。ゲームの中盤以降では、キャラクターの生成頻度と消滅頻度は拮抗してくるはずである。
だが、それでも、プレイヤーによるキャラクター消滅操作(合成 or 解体)の重要性・必然性の低さは、パズドラとの大きな差異と言える。


端的には、艦これのシステムは「キャラクターをなるべく消滅させない」ようになっている、と言える。



艦これのキャラクター生成・消滅システムの意義付け

前述の、艦これに特徴的なシステムを再掲する。

  1. ガチャがない
  2. レアなキャラクターでもドロップ or 建造により入手可能
  3. 戦闘でキャラクターがロスト(撃沈)する


先ほど「キャラクターをなるべく消滅させない」のが艦これのシステムだと述べたが、この視点から③の撃沈システムをどう位置づけられるか。

撃沈システムとキャラクター消滅について

まず、撃沈は、プレイヤーが意図しない形で発生するもので、プレイヤーの過失である。キャラクターを収集・成長させるゲームにおいて、キャラクターを意図せず失うことは最大のペナルティとなり得る。
撃沈によるキャラクター消滅頻度は、おそらく合成・解体によるキャラクター消滅頻度と比べれば微々たるものであろう。だが、プレイヤーにとっての意味的重要性は極めて大きい。実際、ステージを攻略する際のプレイヤーの判断は撃沈のリスクによって制限される。


撃沈というシステムが存在している以上、ゲームシステムは「キャラクターを消滅させ」ようとしている、と言える。一方で、プレイヤーは自発的に「キャラクターを消滅させない」ようにする。
よって、撃沈というキャラクター消滅システムは、ゲームプレイにおける葛藤の発生要因となり得る。ゲームにおける葛藤の場では、プレイヤーによるギリギリの判断が行われ、そこにドラマが発生する。ドラマの結果として、生存、あるいは、消滅が発生する。撃沈によるキャラクターの消滅は、鮮やかに、高ディティールに、プレイヤー自身の体験として描き出され得る。
一方で、合成・解体というキャラクター消滅システムにおいては、葛藤というよりは作業効率の追求がなされるのが通常である。そして、これは艦これでは重要視されていない。


撃沈システムを考慮に入れれば、艦これのシステムはこう言える。「合成・解体ではキャラクターをなるべく消滅させないが、撃沈によるキャラクター消滅は常にプレイヤーに意識させる」と。
ここに見られるのは、ドラマ性のある、劇的な消滅に重きを置く姿勢である。


ドロップ・建造によるキャラクター生成について

前節で、キャラクターの消滅において「劇的」というキーワードを挙げた。
では、この「劇的」というキーワードをキャラクターの生成に適用して再度見直すとどうなるか。
ドロップ、ガチャ、建造、の3つのキャラクター生成システムを比較してみる。


まず、ステージクリアによるドロップは劇的となり得る。
練度が低くクリアできなかったステージを、いくつかの準備を経てようやくクリアできた際、その報酬として魅力的なキャラクターが得られた、というのは十分にプレイヤーにとってドラマチックになり得る。
イベントステージでの潜水艦、大和のドロップ等はまさにそんな感じである。


ガチャはどうか。これも劇的とはなり得るが、現金が絡むと扱いが難しくなる、と思われる。
現金ガチャのシステムが、あまりに劇的さを演出できてしまうと、プレイヤー側が雰囲気に飲まれて過剰に現金を投入してしまうことになる、ということがあるのではないか。要するに、コンプガチャの問題である。
自分でコンプガチャ系のシステムをやり込んだわけではないので詳しくは語れないが、SNS等の書き込みを見る限り、「〜万円を投入した末にようやく獲得したキャラ」という形で、キャラクター生成のドラマが発生していることは見て取れる。
プレイヤーが冷静に判断して適度に現金を投入できるようにするには、システムを単純にせざるを得ない。そして、劇的さが発生し得るような手の込んだシステムにするには現金の扱いが枷になってしまう。
現金ガチャにおいてはこのような制約があると見れる。


では、建造はどうか。
これは、単純なガチャと比べれば相当に手の込んだシステムになっている。資源の投入量の決定、建造完了までの待機時間、とプレイヤーがかける手間、払うコストは多い。
現状だと資源の投入量ノウハウはwikiにまとめられているし、高速建造材も余りがちなので、劇的さが強いとは言えないかもしれない。ただ、独力でノウハウを貯めようとした場合は相応の試行錯誤は発生するはずだし、今後システムが変更になった場合にはプレイヤーコミュニティでの活発なやりとりが発生するはずである。
現金によるガチャと比べた場合、現金を使うこと自体から生ずる劇的さを差っ引けば、低リスクで多様な劇的さを演出することを指向している、と見れる。



個別の検討は以上。
上に挙げたシステムのうち艦これで採用しているのはドロップと建造となっているわけだが、艦これでは、メインがドロップ、サブが建造となっている、と思われる。ドロップ・建造のどちらでもレアキャラクターが出るという点では対等だが、イベントステージでドロップの形でキャラクターが先行配信されるところからすれば、ドロップ>建造、である。
つまり、艦これについては、「ガチャがない」と言うより、「ドロップが最も重視されている」とみなすのが適切ではないか。
そして、ドロップを重視するのは、それがメインのゲームプレイと最も密接に結びつき、最も劇的となり得るから、である。また、ゲームプレイとの結びつきが弱いシステムには重きを置かないという方針から、現金ガチャは不採用となり、補助的なキャラクター生成システムとして建造が採用された、と見れるのではないか。


キャラクター生成・消滅システムのまとめ

ということで、艦これにおいては、ゲームプレイにおいて最も劇的なユーザー体験を発生させるための要素として、キャラクターの生成・消滅システムが用いられている、と考えられる。
少なくとも、(短期的な)収益化のしやすさは、ユーザー体験の劇的さに比べて低い重要度に位置づけられているのではないか。


幕間

無駄に長くなってきたので一旦これまでの流れをまとめる。

  • 艦これがなぜとっつきやすかったか、が問題点。
  • 艦これと従来のコレクション型ゲームの主要な差異はキャラクターの扱いではないか、という仮説を立てる。
  • 艦これのキャラクター生成・消滅まわりのシステムを検討し、劇的さが主軸になっているとみなす。


以上。
まだ、特徴的なシステムについて意義付けをしたまでなので、当初の目的まではまだ道半ばというところである。

ここまではできるだけ事実ベースで話を進めるようにしたつもりだが、以降は主観的だったり観念的な話が多くなってくる予定である。



コレクション系ゲームにおけるドロップと敵

前章では、艦これの特徴的な要素としてキャラクターの生成・消滅まわりのシステムを確認した。
艦これにおいては、生成ではドロップが消滅では撃沈が重視される作りになっている、としたわけだが、これらのうち、発生頻度が多い方のドロップについて掘り下げてみたい。
また、艦これでは戦闘の結果としてドロップが発生するということから、敵の存在がどう描かれ、どうキャラクターと関連しているかを確認する。


コレクション型ゲームに限らないが、「強力な敵を倒す(超克する)ことで、その敵の力を我が物とする」というお話は、一般的な物語のパターンとして存在する。龍を殺してその血を浴びることで不死の力を得るとか、ヤマタノオロチを殺したら剣が出てきたとかそんなやつである。
もっと抽象的に「障害を乗り越えることで価値あるものを得る」パターンと言ってもよい。


戦闘タイプのゲームにおいて、敵を倒すことでドロップにより何かを得る、というシステムがすんなりとプレイヤーに受け入れられるのも、この物語のパターンが一般的であることの証左と言っていいと思われる。
古典的なRPGで見られるのは、モンスター等の「恐ろしいもの」を倒すことで何らかの装備品(強力な武器とか)を得る、というパターンである。ここで得られるのが装備品になるのは、RPGではプレイヤーの分身たるキャラクターがゲーム内世界にただ一人存在するからである。プレイヤーとキャラクターの1対1の関係を維持しつつ、キャラクターへの報酬付与を象徴的に表すために装備品というモノが使われる。


で、報酬として得られるモノが装備品でないパターンとしてポケモンやら女神転生やらのような、キャラクターコレクション型のゲームが出てくる。
こちらでは、モンスター等の「恐ろしいもの」を倒し、これをそのまま自分の駒として使役する形になる。つまり、敵とドロップ報酬がイコールになる形である。
パズドラも本来はこの流れを汲むものであった……と思う。


で、で、また別の派生として、「敵を倒す(超克する)」という過程以上に、プレイヤーが「価値あるもの」を収集・所有すること自体を重視するタイトルが出てくる。おそらく、ビックリマンをここに位置づけられると思う。作品内世界における障害克服のロールプレイは発生させず、一段メタな次元での収集行為の困難さが、結果的にプレイヤーにとっての「障害」になる、という形である。
そして、さらなる派生として「価値あるもの」に「美しいもの」「愛らしいもの」として美少女キャラクターが使われる流れが出てくる。モバマスはまさしくこの流れにある、と思われる。また、パズドラの美少女系モンスターもこの流れの影響にあると思われる。艦これもまたそうである。


このあたりの派生要素が混ざってくると、話がややこしくなってくる。
プレイヤーにとって、乗り越えるべき障害・困難は「恐ろしいもの」の姿をとって現れるのが自然である(ゲーム内世界で障害克服の過程を描くのであれば)。一方で、プレイヤーが所有したい(あるいは同化したい)のは「愛らしいもの」である。
このギャップをどう乗り越えるか?
モバマスでは、障害を、レッスン、クエスト等の姿のないものとし、姿を持つのは「愛らしいもの」だけにしている。
パズドラでは……全く追いきれていないのだが……脇で見る限りは、「愛らしさと強さを兼ねたもの」を障害と報酬の両方に使う、「愛らしいもの」は障害としては登場せずガチャ等の別経路で入手できるようにする、倒した「恐ろしいもの」が「愛らしいもの」に転生して報酬になる、等のパターンを組み合わせていると思われる。
艦これでは、倒した「恐ろしいもの」が「愛らしいもの」に転生して報酬になる、となっている。
艦これの解法はストレートでシンプルであると言えるが、これは敵と報酬=キャラクターを強く密接に関連づける形にもなっている。


艦これの設定上、敵が最初に在って敵を倒すことで艦娘が生まれたのか、艦娘が最初に在って艦娘が撃沈することで敵が生まれたのか、「卵が先か鶏が先か」は明確でない。
何が発端かは定かではなく、明確な意図を持って設定されたのかも不明であるが、結果として、艦これにおいて美少女キャラクターは「愛らしいもの」と「恐ろしいもの」の2面性を持つことになった。そして敵とキャラクターには点対称的な構造が生まれた。
敵の死はキャラクターの生に、キャラクターの死は敵の生に、容易に結びつく。
構造があまりにも単純で強固なので、例えば、視点を180度反転させて、
 プレイヤー : キャラクターを捕まえて兵器として使役する悪の権化
 敵     : キャラクターをプレイヤーの手から解放するために侵攻する正義の軍
と見ることも可能であり、そう見た場合でも構造は維持される。


とにかく、艦これにおいては、生成と消滅の主要システム(ドロップと撃沈)が、キャラクターと敵の対立構造ときれいに重なっている。
ならば……生と死にゲーム内世界と密接に関連する強い意味が与えられている、とも言える。


艦これにおいて、プレイヤーは死なせてしまった愛すべきキャラクターの恐ろしい恨みと対峙し、それを乗り越えることでまたキャラクターを生まれ直させ、それを繰り返す。そういう舞台になっている。



キャラクターの生と死を描くということ

ある物語において(あるいは現実において)、キャラクター(あるいは人間)が死ぬということに対して、我々は自然と何らかの「意味」を求めてしまう、はずである。
「無意味な死」はストレスである。
そういう、死を中心にした物語化の圧力は、物語作品において意識せざるを得ない主要な位置を占めていると思う。


そういう点から見て、従来のコレクション型ゲームにおいて、合成で消滅させたキャラクターが他のキャラクターの経験値になって終わり、という描かれ方をしたことに拒否反応を示す層が一定数いたのではないか、と思う。
そういう層が、艦これをプレイした際は、少なくとも序盤は合成を行わずに済むので、結果として定着しやすかったのではないか、と考える。


「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」とか「袖振り合うも他生の縁」とか色々あるが、プレイヤーがキャラクターと出会ってしまったならば、プレイヤーはキャラクターに多少なりとも愛情を抱いてしまう、ということはあると思う。ゲーム内世界ではシステムは強力であるからこそ、「無意味な殺害」のロールプレイをプレイヤーに強要するシステムは、少々注意して取り入れるべきではないかと思う。