ファンタジスタドール 8話 玉ねぎ破壊劇場

ファンタジスタドール、8話についてメモみたいなもの。


学園祭の学校を舞台に、複数の登場人物がそれぞれに行動し、交錯やら衝突やらが起きる、という流れ。場面の転換、動きの方向の転換が激しく、見ていて楽しい構成である。画面上の動き、見せ方とプロットが噛みあうと効果的で、脚本の腕の見せ所という感がある。ストライクウィッチーズの7話「スースーするの」回と似た構成。


この手の構成の場合、何かキーになるものが舞台を縦横に移動し、このキーをめぐって各登場人物の思惑がそれぞれに動く、というのがパターンになると思う。今回は、うずめの妹のみこがそのキーの役割を担っている。

かがみとリン

作品の前半〜中盤で実際にみこを追いかけたのは、かがみとリン(チャリーンの人)である。


かがみは、これまでの流れ的には、うずめと仲良くなりたいものの委員会とのアレコレで素直に仲良くするわけにいかず葛藤している、という立ち位置である。最初のシーンで、うずめの差し出した手を取れなかったかがみは、たまたまやってきたみこの保護者役を買って出ようとする。
かがみは、みこを、ある種のうずめの分身として見ていることになる。うずめ本人には近づけないが、「うずめの一部だがうずめそのものではない」みこに、代償的に接近しようとする。これもカティアに割り込まれるなどして上手くいかないわけだが。


リンの方はどうかというと、こちらは単純に委員会の手先として、うずめからカードを奪って自分の希望を叶えようとする。リンがみこを追いかけるのは、うずめにたどり着くための手段として、である。


ここにおいて、かがみとリンがそれぞれの理由でみこを追いかける状況が生まれるが、これはそのまま、かがみの内面の葛藤が表現されているとも言える。つまり、リン=過去のかがみ、である。現在のかがみがリンを撃退したということは、かがみの内面で、委員会の手先としてでなく友人としてうずめに触れ合う、という意志が確立した、とも言い換えられる。


最後のシーンで、かがみがうずめの手を取るシーンが描かれたということで、今話においてかがみの葛藤にとりあえずの決着がついたと言っていいのではないか。そして来週は直接対決……と。


……まあ、委員会の刺客をかがみが撃退するのはこれまで3,4回やってるので、今回も「かがみちゃん毎度おつかれー」というとこではあるのだが。うずめの手を取る/取らないあたりの描写や、みことの会話、みこを追いかけるシーンの描写、というあたり、特に今回はかがみの葛藤に焦点が合った回になっていた、と言えると思う。
葛藤らしくない、ドタバタコメディー的な見せ方ではあるが、ちゃんと葛藤的になっているのは、本作らしい。



監督とみことうずめ、あと玉ねぎ


今作のもう一人の委員会の刺客は映画監督である。
監督はみこを直接追いかけたわけではないが、映画上映後にみこだけが客席に残るという印象的なシーンが描かれている。
監督と対決するのはうずめの方だが、映画のラストシーンに出るのが玉ねぎで、戦闘で使われるのも玉ねぎ、というあたりはちょこちょこと関連付けがある感じである。
ちょっとここは整理してみる。

  • 監督は、Aパートで映画を上映したものの、誰にも理解されず酷評を受ける。
    そして、理解してくれる人を見つけるため、映画に人を集めることを委員会に依頼する。
  • 映画の内容は、何とも言いがたいが、「感情のない男女が残ったが、出会うことがなく、映画は始まりもせず、終わりもしない」みたいな感じである。そしてラストカットで玉ねぎ。これは地雷。
  • 委員会と契約した後、監督とうずめの戦闘になるが、戦闘の場面では監督は映画の内容を踏まえた発言をしている。
    「出会ってしまった以上、ぼくらは戦いの中で映画の結末を語らなければならない」。
    戦闘はうずめチームの玉ねぎ攻撃で終了、監督は涙を流してリタイア。
  • この後、監督が上映会場に向かったところ、みこ一人が残っており、他の観客は途中退席していた。
    みこは映画の感想を「おもしろかった」と言い、監督はこれを聞いて涙を流す。


監督が涙を流すシーンが2回あり、それらが関連付けられているのは確実であろう。
みこがうずめの分身的な存在である、とすれば、監督はうずめとの戦闘において涙し、また、みこの言葉において涙する、と、うずめ=みこによって2回泣かされている。
ここを大きく大きく俯瞰で見れば、監督はうずめとの接触により大きく気持ちを動かされた、と言える。
では、それぞれの接触をどう見るべきか。


戦闘の方。
監督のセリフにある通り、映画が結末を語っていないことについて監督は自覚的である。そして、うずめとの戦闘で語られなかった「結末」を迎えることへの期待がある。
戦闘で何が起きたかといえば、玉ねぎが包丁で切り刻まれた、要は破壊された。
始まりも終わりもしない自己完結的な閉じた映画作品、その映画を象徴する玉ねぎ、戦闘における玉ねぎの破壊……と並べてみると、どうも意図は明白であるように見える。
要するに、監督がうずめと出会うことで閉塞した自意識を壊された、と。


そういう衝突の後で、うずめは監督に対して同情を覚える。人を楽しませたいという気持ちは同じだ、ということで。
そこから今度は映画の方である。
客観的に見れば地雷、自己完結な映画。で、大多数の人は離れてしまっているわけだが、みこはただ一人「おもしろかった」と言う。誤読かもしれないし、本当に意図が伝わったかも怪しいが、それでもそういう観客がいてくれたことで、監督の涙腺が決壊である。
2度目の玉ねぎの破壊だが、こちらが本当の意味での破壊であった、ということになる。


うずめとの戦闘と、みこの映画評は切り分けて見るわけにはいかない。
うずめが戦闘という形で監督と衝突し、監督に共感を得たことにより、うずめの分身たるみこが、監督の映画に「おもしろい」という評を下すことが初めて可能になった、と見るべきだろう。
説明しすぎず、直線的になりすぎずに、テンポ良くイメージを表現している、というあたり上手いと思う。



今回の監督とうずめのエピソードに、作品全体の流れから見て特に意味があるとすれば、監督の「希望」の叶えられ方、にあるだろう。
監督の「希望」が、委員会によって直接叶えられたのでなく、うずめとの衝突によって叶えられたという点は、作品のテーマにも関わってきそうな話である。おそらく、次回のかがみとの対決でもかがみの「希望」がどう叶えられるべきか、という辺りがポイントになってくるのではないか。



ふぁんたじすたどおるは楽しいなあ。