劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語 夜と変身

まどかマギカ劇場版について。

前回は、観た直後の感想等をざっと書いたが、主観的なレベルで「どこで心が揺さぶられたか」というあたりについては書けてなかったので書いてみる。

以下、ネタバレ。







で、もったいぶらずに言えば、どこで心が揺さぶられたかといえば、ほむらが魔女になったシーンである。
上手く言葉にできないのだが、あそこが作品全体のヘソであるというような、収まるべきものが収まった的なシーンであったという感覚があった。
ということで、この謎の感動を上手く言葉にしてみようという試みが以下である。


夜と劇場

「叛逆の物語」において「終わってしまったものをどうやって突き崩して語り直すか」が作品にとって重要な問題だったと思う。


TVシリーズは「綺麗に」終わり、まどかは世界のシステムの一部となり、ほむらはその中で生きることとなった。
この世界は大切な友人が身を賭して築いたシステムによって動いており、ほむらはシステムの背後にいる友人のことを思いつつ自分の生を生きればよかった。


物語を語り終えるには良いタイミングである。
「非日常」の世界で、視聴者らが我が身を投影した少女達は、闘争の末に、肯定に足る「日常」の形を見せてくれた。
ちょっと「日常」を離れて「非日常」の世界に入り、「非日常」の世界の中でキラキラした景色やら、ドキドキする出来事があり、「日常」はそんなに悪いものじゃないんだよというお話を聞いて帰ってくる。また「日常」に戻ってきて始めることができる。そういう行儀のよい終幕である。


だが、魔法少女の物語は終わったままではいられず、続きが語られることとなる。


魔法少女は、空想の、「非日常」の、裏側の世界の存在である(少なくともまどかマギカにおいては)。
表の世界は肯定すべき「日常」である。そこはまどかが築いたシステムによって支配されている。


分かりきった話ではあるが、我々は「日常」の中に在り続けられる程に強固ではない。
支配されれば逃げる。日が照れば物陰にひそむ。真実があるなら嘘をつく。正史が定まったなら偽史を語り出す。
変化を望む。


だから我々は、それがどんなに正しく美しく肯定すべきものであったにせよ、「日常」を逃れて、「非日常」へと、劇場へと駆け入らずにはいられない。
そして、そこで太陽が引きずり降ろされる様を見届けなければならない。



夜と魔法少女

「叛逆の物語」は夜の街のシーンから始まる。
魔法少女は、昼の目の届かない、夜の世界で活躍する。


彼女らが相手するのはナイトメア。
少女の世界は、夢と現実の境目が曖昧で、知らず知らず夢の中で自分がお化けになってしまっていることがある。
魔法少女は、お化けを倒して、本当の少女を見つけ出して、悪い夢から目覚めさせてあげる。
夢のお化けの中には少女の可愛い寝顔が入っていて、それを掘り出してあげればいい子に戻る。


夜にはいろいろなものが本当の姿になる。
可愛い服を着て街を飛び跳ねてもいいし、お化けになって家も街も好きに壊してもいい。
甘いお菓子には魔法があるからお化けと一緒に食べてしまってもよい。
見える世界のすみずみまで手が届くし、みんながみんなのことを分かっている。
悪いものは頑張ればどうにかなる。ぼくは/わたしはちっぽけな存在じゃない。


ここは夜の最下層だ。
さあ、ここから「日常」まで登らなければならない。
道理もなく与えられた「非日常」の力などすぐに消えてしまう。
「日常」まで登りつめて横っ面を殴りつけることがここで為すべきことだ。


だからまず一つ世界を壊して、一つ階段を登る。

夢と変身

「非日常」から出発して「日常」に近づくには、整合性の取れた確からしいロジックが必要だ。
手軽にそれを為すにはどうすればよいか?
からしくないものは全て嘘だということにすればよい。
その嘘を、騙っている奴を見つけて、同じ地平に立てば、より確からしい世界が見えるはずだ。


かくして我らが探偵、暁美ほむらは「非日常」から「日常」へと踏み出す。
解法は、古典的な、夢を見ている自分の発見。


夢から醒めることで、我々は「非日常」から「日常」へと一歩近づいた。
凡百の物語においてなら、我々はここで力を失っている。「日常」に手は届くのに、殴りつける力は、魔法は既に「非日常」に置いてきている。
だが、本作では、まだここには魔法がある。TVシリーズが到達した「日常」キュウべえがいる世界では、まだ魔法が使える。それが夢の中とは違う残酷な魔法であっても。


ここは魔法が使える世界だが、夢の中よりは「日常」に近い。
からしさはキュウべえが保証してくれるが、夢の中ほど優しくはない。
魔法は狂的なエネルギーの産物で、これを生み出すには苦しんで絶望しなければならない。
魔法の力は何かを破滅させることにしか使えない。


しかし、これに何か問題があるだろうか?


苦しんで絶望しなければならない?
「日常」で苦しんで絶望して「非日常」に逃げてきた。
「非日常」の夢から醒めてまた絶望した。
我々は既に絶望している。


魔法の力は何かを破滅させることにしか使えない?
「日常」の横っ面をはたくのに使うのだ。最初から壊すために使うのだ。


「非日常」を、夢を見ているほむらは、そして我々は、「日常」を壊すお化けだ。
だから、ほむらは魔女なのだ。


魔女と化したほむらが世界を破壊するシーンは、TVシリーズ10話の、何周目かのループでのまどかの台詞と重なる。
「このまま魔女になって世界をめちゃくちゃに〜」というアレである。
本シリーズにおける、魔法少女の魔法と魔女の破壊は表裏の関係にある。
TVシリーズにおける魔法少女/魔女の反転が、本作「叛逆の物語」での夢からの覚醒に対応している、と言える。


魔法少女であれ魔女であれ、望みは「日常」の破壊、あるいは突破なのだ。
TVシリーズにおいて、まどかは「日常」の破壊者となり、ほむらは「日常」への帰還者になった。
まどかは反則的な自己犠牲によって「日常」の横っ面を殴った。
ほむらはこれを見届けるに留まった。


変身することができなかった暁美ほむら「日常」に帰還してしまった俗物。
しかし、俗物だからこそ、変身して、何度でも「日常」の横っ面を殴ることを望まずにはいられない。
だから、この劇場の舞台で変身した。
魔女の姿を得て、「日常」の残滓をことごとく破壊して、スクリーンを「非日常」で埋め尽くした。
我々もそうだ。「日常」が破壊される様を見に来た。

変身と「本当の自分」

「非日常」の勝利の光景を見て、我々は思う、「このままでは「日常」に帰還できない」と。
「日常」を壊し始めて、すぐに我々は破壊行為に飽きてしまい、魔女の身体と「本当の自分」を切り離す。
(だから魔女には顔がない)



少女の世界は、夢と現実の境目が曖昧で、知らず知らず夢の中で自分がお化けになってしまっていることがある。
魔法少女は、お化けを倒して、本当の少女を見つけ出して、悪い夢から目覚めさせてあげる。
夢のお化けの中には少女の可愛い寝顔が入っていて、それを掘り出してあげればいい子に戻る。

神様か、友達か、誰かがお化けの中から「本当の自分」を見つけ出してくれる。
そうしたら「日常」に帰ろう。


都合のよいお話である。
だが、誰かとの心のつながりが「非日常」の混沌からの再生の鍵になってくれる。それを信じることで新しい「日常」に帰れる。悪い話ではない。
まして、「日常」に帰してくれる相手がまどかなのである。TVシリーズ「日常」を作り替えて、ほむらを、我々を送り出してくれたあの人なのだ。
ここで終わればまた帰れる、我々はまどかの加護を受けて「日常」に帰還する……



神と騙り

……そうではない。もう一度否定しなければならない。
まどかが支配する「日常」に戻ってしまえば、劇場に来る前と変わりがない。


形の無い神には手を出すことができない。だが、神が形を持ってしまったのであれば、それを壊そうとせずにはいられない。そこにまどかという形があるのならば、手を伸ばさずにはいられない。


そうだ。魔女になって街を破壊するだけではまだ不足だったのだ。
いや、それはまどかを誘い出すための前座でしかなかった。
「絶望した者を救済する神」などという嘘を暴かなければならなかったのだ。


まどかは「わたし」である。まどかは「わたし」の半身である。
「わたし」はまどかのように喜び、まどかのように苦しむ。
「わたし」の終わりはまどかの終わりで、まどかの終わりは「わたし」の終わりでなければならない。


だが、TVシリーズの終幕では、まどかは終わり「わたし」はまどかに救われる。
おかしい。
「わたし」が神になれるはずがないのに、まどかは神になってしまった。
「わたし」を誰かが救ってくれるのならば、まどかだって誰かに救われなければならない。
おかしい。
それがあってよいはずがない。


誰もがそれを当然と受け止める中で、「わたし」がまどかによる救いを肯定してしまえば、「わたし」がまどかの半身でないことが変えられない事実になってしまう。
否定しなければならない。
まどかを引きずり下ろすか、「わたし」が這い上がらなければならない。そう騙らなければならない。
「わたし」がまどかの半身で、まどかが「わたし」の半身であるために。永遠に。



そうだ。魔女になったほむらの姿から想起されるイメージは、「花嫁」ではなかったか。