『ヴァンパイア・サマータイム』 救われない「恋愛」

読んだ。
完成度の高い作品という点は確かだと思うが、「どういう話だったか」を語るには少々慎重になってみたくなる。主軸が恋愛であるという点は確かにそうだが、その背景にあるイメージにどこか不吉なものを感じる。

カマタリさんからの流れ、リアリティの問題


ちょっとうろ覚えだが……前作のカマタリさんでは、いかにも「ラノベ的」なガジェットや設定を散りばめておきつつ、後半ではシリアスな恋愛の方向に展開が変わり、シリアスな恋愛が割とあっさりと成就するというラノベらしからぬ終わり方をしていた。確か。


少年の視点から見て象徴的なガジェットを多用したり、現実との差異を強調するような、いかにも「ラノベ的」なやり方を排しつつ、何かしら独自の手法を確立しようとする意図がこの頃からあったと思われる。
カマタリさんでは、それがいち作品内での急激な路線変更として現れたので少々面食らったが、本作は最初から「そういうもの」として書かれた感があり、落ち着いて読める。


では、「ラノベ的」であることから離れることの意義はどこにあるか。
ラノベ的」であるということは、過度に抽象的である、とも言いかえられる。つまり、「お約束だから」という暗黙の了解によって、設定の不整合を強引に押し通すことができる。これによって物語をダイナミックに動かしたり、魅力的なガジェット・キャラを出して、読者を強く惹きつけることができる。しかし、その反面、ダイナミックさが強く求められるあまり、微細で複雜な問題が描きづらくなる、というデメリットがある。


これは、作品においてフォーカスするポイントをどこに置くか、ということである。
恋愛という未知の存在を強く恐れる少年の視点からすれば、恋愛は容易に達成できない大問題で、少女は強大な力を持つ存在となる。この視点に立って物語を描くことは可能である。だが、ここに現れる「恋愛」は遠く、大きい分、解像度が低い。
では、恋愛は未知だが手が届きそうな位置にある存在である、と見る立場からすればどうなるか。恋愛は作中で達成できてもできなくてもよい、少女は特別かもしれないが特別すぎなくてもよい、くらいに収まる。そして、「恋愛」は近く、小さくなるが、その分解像度が高くなり、多様な形になり得る。
人物の解像度の高さ、そこに現れる問題の解像度の高さ、この辺りがこの路線での目指す所だと言えるのではないか。これは、リアリティと言い換えてもよい。


「現実と似ている」という意味での「リアリティ」について言えば、本作には「リアル」でない要素は多い。
まず、吸血鬼という設定がそうだし、ヒロインの冴原の人物にしても、男性目線での理想化はされていると思われる。この点からすれば、本作の作品内世界は少年・青年の内的な世界である、といって差し支えないだろう。
ただ、この内的な作品内世界に現れる、少年・青年の問題が、高解像度で複雜である点について「リアリティがある」と呼ぶことは可能と思われる。



ヨリマサという人物

細かいあらすじは省く。
本作の主人公はヨリマサであるわけだが、この人物には伏せられた部分が多い。半ばまで読んだ時点で、昼夜逆転気味、実家がコンビニで時々バイトをしている、部活はやっていないっぽい、三角関係的な友人がいる、成績は中の上程度、くらいだろうか。
作中時間は冴原との出会いから始まるが、冴原以外の要素はほとんど現れない。冴原以外に好きなものがない、とも言える。

p189、冴原家に招待される前、恋愛映画を観た後。

 恋に生き、恋に死にたいと思った。昼夜逆転していると心が柔になり、触れたものに合わせてたやすく形を変えてしまいがちだ。明日になればこの感動も消えて、泣いていたことなど馬鹿みたいだと思い出されるだろうが、やはり恋なのだった。その一点だけで彼は、まわる世界にかろうじてひっかかっていられる気がした。

虚無と、一縷の望みとしての「恋」。


昼夜逆転し、冴原家に招待され、吸血鬼達と寝食を共にしたヨリマサは、「ここではないどこか」「向こう側」へと(一時的に)越境する。
冴原家での冴原との会話。

「前に夏休み嫌いだっていってたよね」
「うん」
「どうして?」
昼夜逆転するから」
昼夜逆転したらどうして駄目なの?」
「することないから」
「することあったらいいの?」
「どうかな」

冴原は、ヨリマサの虚無の救い手であるように見える。
そして「夜と牙」の章で、ヨリマサの虚無の行方、内実が現れる。

夜の海

「夜と牙」の章、ヨリマサは夜の世界の住人として、冴原との夜のデートを重ねる。
ここで強調されるのは、人間と吸血鬼の差異である。
「理想に燃えて駆け落ちしたものの現実とのギャップに幻滅」「外国人と結婚したらカルチャーギャップで大騒ぎ」、紋切り型で言えばこうなる。が、そこで大げんかしたりドタバタコメディに持ち込める程、俗的・現実的にもなりきれない。ヨリマサはまだ純粋な少年である。


p269、デート先の海は、虚無の世界としてヨリマサの前に現れる。

 海はヨリマサの知っているそれに見えなかった。海岸通りに並ぶ街灯を境界線として、その先はヨリマサの目にとらえられない世界だった。

海ではしゃぐ冴原と、何も見えていないヨリマサという絵は、この先の全てを暗示してしまっている。ただただ、描けば描くほど痛みを得るシーンである。


p274、ヨリマサの過去がようやく語られる。

 そうでない生き方もありえたのだろうかとヨリマサは考えた。規則正しい生活を送って、高校でもサッカーを続けて、夏合宿で吐くほど走らされて、友人や先輩後輩がたくさんいて、食卓に家族がそろって、夢も見ずに眠って、波の音に目がさめて、海沿いの街で、冴原がいっしょで、生まれた時から吸血鬼で、夜の海がどこまでも見渡せてーー続いていく確かな幸せを手に入れられた世界もあったのだろうか。


ヨリマサには、この「恋愛」の限界が見えてしまっている。ここで示唆されるのは、吸血鬼となり本当の意味で越境することである。故に、ここからの冴原との接触には、キスシーンには、越境の期待と罪の予感が付きまとってくる。


夜の海でのキスの失敗の後、第三節では、ヨリマサの告白から初のキスが描かれる。
ただ、第二節、夜の海にあった越境の予感はここではスカされ、まるで普通の恋人であるかのように告白とキスは行われる。
p300、

「俺さあ、ずっと夏休みが嫌いだった。嫌いっていうより怖かった」
「怖い? どうして?」
 彼女はヨリマサの胸に声を響かせ、それを聞こうというのか、耳に胸を押しつけた。
昼夜逆転して暗い中で起きると、ひとりで、どうしたらいいのかわからなかった。俺この先どうなるのかなって考えて、誰の助けも借りられない気がしてた」
「そう」
「でも、この夏は冴原がいたから、色々話せたし、ひとりじゃなかったし、楽しかった」
「この先のことよりいまのことを怖がりなよ。吸血鬼につかまって血を吸いたいっていわれてるんだよ?」
「怖くないよ。感謝してるんだ。冴原、ありがとう」

ヨリマサの虚無は解消されたかのように見える、だが、実際には夜の海の虚無は乗り越えられたわけではない。まだヨリマサは越境していない。


この第三節をどう読むかは……迷うところではある。
続く四節ではヨリマサは何でもないような会話の流れから、ボソッと「血ィ吸っちゃってもいいよ」と漏らしている。冴原と視線の合わない膝枕の体勢からの一大決心の吐露。叶わない願いを冗談のように言うヨリマサ。これは、正面からの告白、キスの流れでは口に出せなかった言葉、ではないか。正面から強く迫れば叶えられた願いかもしれない、が、そこまで強くはなれない。
三節では普通の恋人であるかのようにキスをした二人は、四節で昼と夜の世界に別れてゆく。三節の瞬間は、甘い夢、あるいは嘘の様相を成す。


終章は、ヨリマサからのメールと冴原からのメール、そして、ヨリマサ・冴原の周囲の人物の会話によって構成される。
それぞれの宛名、題名等のフォーマットの差は、何かしらの差異・すれ違いを予感させる。「昼間の世界」の文字はボールドで強調されている。
孤立とすれ違い、離別を予感させる中で、言葉にはまだ希望があるようにも見える。それが上滑りしているのか、真実になるのかは分からない。


冴原という人物

ここで、冴原という人物に戻る。
彼女は何者なのか? ヨリマサの中心が空虚であるとして、その対面者である冴原の中心には何があるのか。


本作における冴原の「原風景」は、「ガラスの向こうの対面者」である。明と暗に分かれた世界で対極に位置し、視線を交わすもの。
この関係は、二人の学校での席が同じであるという点にも端的に表される。
異なる世界にある同一のもの。鏡面的な関係。構造的には、このような関係が示唆される。


だが、冴原にヨリマサの空虚はあるだろうか。ヨリマサが見た夜の海の空虚が冴原に見られるか。
優等生で部活にも精を出している、という点で、設定的にはヨリマサと異なっているように見える。が、いくつか傾向は見られる。
p190、

冴原に希望の学部はなかった。特考の対策をするのは、ただ悪い点を取るのが怖いからだった。

特に強調されているものでもないが、冴原にも見えていないものがある、ということではある。


ただ、冴原という人物において虚無を語るのであれば、彼女自身にではなく、彼女からヨリマサへの視線の中にこそ虚無がある、と言える。
冴原は、なぜヨリマサが好きなのかが分からない。ただ、好きである理由は「におい」へと集約されてゆく。ヨリマサの人物を嗅覚へと押し込み、視覚的、言語的な部分を捨象してしまう視線。冴原に「見えない」のは、恋愛の対象であるはずのヨリマサである。
冴原の視線は、冴原による「におい」の肯定は、ヨリマサを非言語的な実存の闇に落としこむ。対象の無条件の全肯定とは、対象の無限の矮小化に等しい。


「夜と牙」の章、第三節では、冴原は「におい」が好きなだけであることを告白するが、これをヨリマサ自身によって肯定され、初めてキスをする。
暗闇にただ感覚だけがある、第三節のキスシーンはそういう世界である。これを是とすることも否とすることもできない。だが、ヨリマサと冴原の「恋愛」には「先」がない。孤独の虚無と全肯定の虚無を行き来しただけ、と言えてしまう。
夜の海の閉塞と懊悩、まだそこから抜け出せない。


まとめ

……と、夜の海のシーンのインパクトが自分には強烈だったので、これを軸にしてまとめた。
あのシーンのイメージに引きずられて見ているところはあるかもしれないが、それはそれで。


恋愛が全てを変えてくれるわけではない、恋愛によって全てが上手くいくわけではない、という視点は確かにあるのだと思う。
これは、冴原の以下の描写・セリフにも現れている。p288

 冴原はベッドの上に携帯を投げ出した。ヨリマサに対して誠実でいたいと思う気持ちは、正義感や道徳心から来たのではなくて、単にそういう生き方しかできないだけのことだったのだ。試験勉強や部活のことも同じだ。手を抜けなくて、息苦しくてーーでも、それが自分だ。この身が灰になるまで自分というものはついてまわる。
(誰かを好きになったら別の自分になれるとか、そんなのないんだなあ……)

ヨリマサに当てはめるなら、虚無から抜け出すには、自分でなんとかするしかない、ということになるか。ただ、恋愛がきっかけになる可能性が無いわけではない、はず。


実に、実に、まともな青春小説というところか。