物語論をゲームに適用するために その3 聴きについて

前回の語りに対して、聴きについて考える。

聴きの機能


編集は、語り手だけに可能な行為であろうか。
聴き手は、本を途中から読むことができる。1ページおきに読むこともできる。あるいは口頭で語られる話を、聴き逃すことができる。
現象としての連続体は、誠実な聴き手によって初めて連続体として認識されうる。現象としての連続体(群)は、観測者(語り手)による代替・編集を経て、別の連続体として表出される。だが、この語りに対する聴き手もまた観測者である。彼にもまた、自らの意志で連続体を代替・編集する権利がある。
最終的には、認識連続体とでも呼ぶべき、ごく個人的な連続体の存在を定義する必要がある。語られた連続体が、聴き手の認識連続体に変換される過程、これは聴く行為の機能と言えよう。


用語の整理

ここまでは、「語る」に対して「聴く」という語を使用してきた。
だが、「聴く」について詳細に見るために、これを2つの段階に区分する。


・読む
・(像を)描く


イメージを優先するために一般的な動詞を用いたが、一般的な意味とは分けて考えるので注意。
以下に、それぞれについて説明を行う。

読む

これは、観測された事象としての連続体を認知連続体に変換するための一連の行為、とする。
例えば、本のページをめくり、文字の列に目を走らせる行為がそれである。この場合は、空間的な文字による連続体を、読む行為によって、語を単位とした時間的連続体に変換することになる(認知連続体は、認識されたあるひとまとまりのものの時間的連続体、と考えられる)。


読む行為は、聴き手が「一度に認識できること」が量的に有限である、という事実により要請される。
例えば、聴き手が、一冊の本、あるいは、非常に長い文章を、分節せずに一つのまとまりとして、十分に短い時間で認識可能だったとすれば、読む行為は聴き手自身の意識に上らない、透過的なものとなっていたであろう。だが、実際にはそうではない。物理的な視野の限界により、一度に知覚可能な現象は限られる。また、言葉というメディアの特性上、文字の連続体は、語の連続体に変換される必要がある。


読む行為は、聴き手の、物理的・生物的限界の故に、能動的な行為として要請される。同時にそれは、特定の箇所だけを読む、誤読する、あるいは、読まない、という聴き手の主体的な行為の発生する余地をも生むものでもある。



(像を)描く

これは、認識連続体を解釈し像を結ぶこと、とする。
この定義では、まず「像とは何か?」ということを明確にしなければならないが、これは、聴き手による個人的な認識的印象、のつもりである。聴き手の頭の中にあるイメージ、と言えるかもしれない。


聴かれた認識連続体は、聴き手によって、再代替と、脱編集(脱構造化)、即ち、解釈を為される。
つまりは、木という語から事象としての木を思い浮かべること、錯時法により語られた事象の順序を元に戻すこと、に相当する。


認識連続体は時間的な連続体である。よって、像は、語りの開始から終了にかけて、時間的に変化し続けることになる。変化の内容は、追加(像全体のボリュームの拡大)と変更(像の既存箇所の描き変え)の二種類が想定できる。何がどちらに対応するか、を明確に特定することは難しい。ある個体の状態、は最新の状態に変更されるとも言えるし、時間的な変異履歴に追加されるとも言える。像においては全てが蓄積されており、要素間の関係における意味づけが、時間・空間等の実世界の現象に対応する、と言うべきかもしれない。


要素の集合としての像においては、要素間の関係の大域的・瞬間的な描き変えが可能である。
星新一ショートショートや落語においては、オチが語られることで、それまでに聴き手が描いてきた像が、表裏が逆転するかのように、瞬間的に描き変えられることがある。例えば、ある作品では、誰であるかが明示されていなかった語り手が、末尾の文で自分が猿であることを独白する。語り手が人間である、という前提に拠っていた聴き手の像は、この新事実により大きく描き変えられる。
像の要素間の関係の変化、要素の更新は、認識の動きであり、即ち感動と呼べる。この動きの緩急の制御が語りの技術の成果と言える。



聴きの並列性と混同

以上で、聴きを、読む・描く、と二段階に分けて考察した。これは言わば、客観的な即物的な見方によるものである。
一歩進んで、聴き手にとって価値がある語りとは何であるか、という点について考えてみたい。


人は自分の人生を生きる。これは、自分という語りを聴き続ける、とも言いかえられる。
ある物語作品は人生という物語の一部である。よって物語作品を聴くことで得られる像は、人生という物語を聴いてきて得られた像の中に含まれている。
本を読みながら音楽を聞いていた場合でも、恋人と一緒に映画を見た場合でも、聴き手は複数の語りを並列に聴いていることになる。
言い方を変えれば、聴き手によって観測されるもの、という事象の連続体はその聴き手が生まれてから死ぬまでをつなぐひとつの連続体である、ということになる。それが現実か、人工の作品か、という区別は、聴き手の識別能力によって為されるものであり、区別されることと同じくらいに区別されないこともまた可能である。


絵画、短歌等の「短い」作品において顕著だが、一部の前提知識のある人にしか「読めない」作品というのは、つまり、聴き手が既に持っている像の要素と、その作品がもたらす像の要素が関係を構築することで初めてその像が意味を成す、ということである。あるいは、像を描くのに必要な要素が作品の外にある、とも言える。(言葉を理解する、という事自体もこれに似た形であるはずだが)
言うなれば、我々は複数の語りを同時に聴きながら、それらの文脈を混同させている。
それらの語りの中で、中心的であり、常に一定以上の地位を保つものは、自己という語りである。作品としての語りが、いかに聴き手の自己という語りと混同され、関係を構築するか、は作品評価の鍵となる。そして、聴き手の自己という像を描き変えることは、物語作品の強力な機能と言えよう。


語り、聴き、をそれぞれ個別に見た結果を踏まえて、語り手の問題を再度考える。
また、語り・聴きが複数併存するインタラクティブメディアの在り方も考慮する。