「ケモノヅメ」 物語の否定

ケモノヅメ」 全話ぶっ通しで見たので感想等。


2006年にWOWOWでR15指定でやってたそうで。
同じ湯浅監督の「カイバ」はレンタルで見た。

OPとかの第一印象

簡素で、デッサンそのままという絵柄だが、手書き風味が残った画風が、逆に動いているように見えることの特異性を強調するようである。もっと写実的だったり、手描きの跡が残らない綺麗な絵柄であれば、あまりにも自然すぎて、それが動いているということに違和感を抱かないのであろうが、描いた手の存在を意識させるような絵であることで(言わば、視聴者にも描けそうな絵であることで)、それが動いて見えることの奇跡性がより強く感じられる。
場面場面では描き込みの線の量が変わったりするところは、そういう演出というか味というか。

OPは、ウルトラセブンみたいだなー、といったところ…。荒々しい。
音楽も相まって、大人向けというかオッサン向けか。


黄色、赤の配色が強烈。
線画的な絵柄と色の遊び的な変化。戦闘は赤、人間に潜む食人鬼は黄色という感じ。線の動きと合わせて暴力的とでも言うような。


各話タイトルは味覚・嗅覚に関するもの。
食人鬼がネタの作品ではなんというか…だが。


1話〜4話

序盤の展開はとにかく急である。
作品の要素としては、
・人間 対 食人鬼
・ロミオ&ジュリエット的な異種間恋愛
・逃亡劇
・伝統 対 現代的合理性
・兄弟の対立
くらいが含まれているわけだが、この辺を一気に序盤で展開して作品の舞台を整えてしまう。詰め込み過ぎ感を感じさせず、ここまで高密度に展開させられるとは、という感じ。
逃亡劇の型を整えて、ここから何を見せるのか、という所。


ヒロイン(由香)が食人鬼である、ということを視聴者に1話から見せるのはわかるが、主人公(俊彦)にまで初期段階でそれを知らせてしまうとは思わなかった。また、主人公の父はいきなり殺されるが、その過去についても早々に視聴者に見せてしまう。伏線を出し惜しみせずにとにかく出しまくる。


父の過去編でも人間と食人鬼の恋愛という主題を展開させる、というのはニクい。
同じ主題の反復。予言的。主人公とヒロインの今回の恋愛劇も、同様の結末を迎えるのではないかという予感を視聴者に与える。ケモノヅメという設定は、そういう結末を暗示する。


5話〜8話

承〜転というところ。


一馬率いるキフウケンの顛末と、逃亡劇の続き。
梅田のエピソードは、再びの人間と食人鬼の恋愛の主題を語るものとなる。今回は、ケモノヅメという特殊項のない、悲劇的な結末。この主題にとってのありふれた結末、というところか。これもまた予言的である。


巨漢の探偵の存在は、ファンタジー的、コメディ的であるが、逆らい得ない力というイメージ。逃亡劇の終焉を感じさせるものではある。


主人公が食人鬼の組織に囚われる所からは転、という感じ。
薬、爪の行方、新種の食人鬼、と新たな謎の提示。


9話〜13話

9話は、何かおかしい。
ロードムービー的と言えばいいのか。老人夫婦は、主人公達カップルのあり得る未来を示すようでもある。夫も妻も何らかの"欠陥"を抱えているが、お互いにそれを補い合って生きている。逃亡のような一つ所に留まらないものではあるが満ち足りた人生の在り方。
塩湖のシーン。天地を空に挟まれた非現実空間。2話の空港の反復でもある。奇跡的・刹那的な幸福。
だが既に示された2つの挿話は、特にケモノヅメの存在は、このような幸福な結末を否定する。
そして、その予言を成就させるために薬売りとして、大葉久太郎がやってくる。
満ち足りた夫婦が食人鬼になり、鬼殺しと鬼はそれぞれ、あり得た自分たちの未来の姿を殺すことで否定する。


そして10話も、おかしい。
9話で示された塩湖の空とは対照的に、あまりにも実写そのままな空。コンビニというあまりに"現実"的な舞台。
大葉久太郎は、ここまではただの登場人物だったものが、ある筋書きを語るもの、として道化的にその本性を表し始める。(面倒なことに)本人が語り手としての自分に意識的である。10話では主人公がコンビニで大葉と鉢合わせし、「YOUはもうボクのストーリーの中で出番終わっちゃってるのよ。魅力ないキャラクターは舞台袖で遊んでていいかも」と言われる。


物語内容的な筋書きの語り手としては、大葉は全ての黒幕的に振る舞う。作中の全ての因縁を自分に集約させるように。終盤の急展開は、全て大葉が制御するようになる。この大葉の全能性は、彼が同時に物語言説の語り手であるかのような錯視をも与える。真実は大葉が語るもので、他の登場人物は大葉の語る言葉の通りに動き、結末は大葉が用意する。自分たちのことしか考えられない主人公達の代わりに、外部世界とのやり取り・影響付与は大葉が行い、物語全体のサイズを規定する。作者の代行をするかのように。
このような物語内容における絶大な力を背景に、彼は越権行為的に視聴者への語りかけを行う。12話で大葉が身につけるのは後ろに顔がついたウサギの被り物である。彼の語りは、物語内と外の二面に対して同時に行われる(12話ラストでの「クライマックス」という言明はまさにそれである)。作品の内外の境界に立って制御する代行者的な語り手は、作品内外の境界を不定にするものでもあり、視聴者を作品世界に引きこむ役割をも持つ。作品内で流通させられる薬品、世界中の人々が食人鬼に変えられてゆく描写。写真を交えた絵。現実と作中の混同。もはや主人公とヒロインの恋愛劇・逃亡劇を超えた規模に話は広がる。


もはや、当初のロミオ&ジュリエット的な話では収まらない状況。主人公の物語はヒロインを奪い返すことで終わる。では、大葉の物語はどこで終わるのか? これは、サブプロット的に展開した、大葉の息子=分身である探偵によって展開させられる(探偵の「俺も大葉だよ」というセリフ)。絶大な力を持った大葉は、探偵との会話において、その人間性を発露させる。「もうみんなに馬鹿にされなくていいんだよ、邪魔者扱いされずに済むんだよ」と。大葉と探偵の会話は、内省的ですらある。大葉の抱えた恐怖=抑圧からの探偵の解放、これが大葉の物語の終末となる。


ラストシーン。語り手としての大葉は、分身としての探偵、主人公としての俊彦と互いに重なり合いながら事態を展開させる。大葉による筋書きのコントロールは、過去の反復としての、俊彦・由香のケモノヅメ化を要請する。俊彦のケモノヅメ化は探偵のケモノヅメ化につながり、これは大葉のケモノヅメ化と重なる。だが、この語り手=黒幕による要請を俊彦は拒否し、人間のままで戦うことを選択する。「ケモノヅメ」という物語は、過去編で予言的に示していたその枠組みの遂行を、作中人物によって拒否される。事態の展開は、全てを制御するようであった大葉の内面へと向きを変え、上月母(ハルミ)の登場により、内面の暴露のような形で、大葉は黒幕としての力を喪失させられる。


大葉は主人公に首を切られ、頭だけになっても生き残り続ける。これは、語り手としての大葉の不滅を示すようでもある。大葉の首は、砲丸投げ選手としての探偵によって投げられる。探偵は大葉の抑圧から解放され、あり得た姿を獲得する。空へ逃れる大葉の首は、主人公によって捉えられ、主人公との対話が始まる。ここにおいて、大葉と主人公は食人鬼=他者を愛しうるかどうか、という主題において対等である。大葉は憑かれたように「現実」について説き続ける。それは、主人公の「違う」という一言で拒否される。
落下する主人公と大葉のシーン、画面全体がまぶたで覆われているかのような演出。主人公の頭を横目に見る視聴者に、大葉が直接語りかけるかのような絵である。これも大葉の越権行為。この、大葉=主人公=視聴者の3人一体での落下は、ヒロインの声によって中断される。主人公は舞い上がり、大葉は地で潰れ、視聴者は大葉の死を見届ける。


エピローグ的に展開される、飛行機での脱出シーン。大葉なき後にあったであろうゴタゴタを振り切るように、主人公とヒロインは、"現実"と隔絶した島に降りてゆく。幻想的ですらあった大葉のビルが"現実"の似姿のような都会と川を挟んで地続きであったのとは対照的に。
自己充足的な主人公達の辿り着く場所は、あの塩湖である。空と空の間の奇跡的な場所。


総括

正統派とはとても言えない作品である。
事態は主人公に負いきれるものではなくなり、裏の主人公とでも言うべき大葉に帰される。


本作の構図は、語り手であるかのように振る舞う大葉と、用意された筋書き(ケモノヅメ化)を拒否する主人公との対立であるかのようでもある。主人公の勝利は、大葉の内面の問題の解決であり、主人公の選択は主人公の内面的葛藤の解決である。
外面の事象である世界的な食人鬼化はついでの事のように扱われる。


世界的な食人鬼化は、物語と現実の境界を侵食するように描かれる。各回のアバンでは、どこにでもいる人が食人鬼になってしまう日常が描かれる。現実にある医薬品をパロったような、食人鬼化を促す医薬品の提示もそう。自分が実は食人鬼であった、という葛藤は一馬のエピソードで描かれる。最終話のホオズキによるテレビからの視点の導入は、視聴者を巻き込む効果を働かせる。


ケモノヅメ化という悲劇的解決を選ばなかった主人公の行き着く先は塩湖=どこでもない場所であった。
大葉は主人公と探偵によって否定される、だが主人公達の行き先もこの世にはない。ここにあるのは、愛の不在を否定しつつも、この世での愛の存在を信じ切れないような、控えめな奇跡の願望である。


本作「ケモノヅメ」は、ケモノヅメという設定上の力の行使による物語の解決を否定した(作中人物によって否定された)。語り手、筋の書き手として振る舞った大葉は退場させられた。
作品は"お話"に留まることができず、現実を巻き込むように展開し、奇跡の提示によって終焉を迎えた。
作中で主人公の父によって提示されるのは「真実が全てではない」という言葉である。


愛はある。だが誰かの愛が他人の問題を解決してくれはしない。
視聴者は、自身で食人鬼と向き合わねばならない。

大葉の葛藤周りを見れば、これは完全に非モテアニメではないか…。

補2

9話は、おっさんの涙腺に堪える。