戦国コレクション18話 大谷吉継回 天使の降誕

大谷吉継回観た。油絵調の背景、抑えたBGMの中で二人の少女が手紙を交互に朗読する構成、シンプルながら印象深いストーリー、記憶に残る回だった。


もはや過剰に語るのも野暮という感じだが、例によって諸々整理のために書いてみる。


なお、本作は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」他、いくつかの映画を題材にしているとのこと。
不幸な出来事を「偶然のラッキー」という主観的なメソッドで幸福に転換させる、という点は「ダンサー〜」に似ている点ではある。ただ、「ダンサー〜」ほどの強烈な不幸の表現、事件構成とは異なり、今作は文通というギミックの上に、いかにも短編的なラストで落とすタイプの話を構築している。いずれにせよ、元ネタ語りは得意ではないので、後はオリジナル作品のつもりで。

虚像と実像

本話の流れはおおまかには以下となる。


・ 吉継の生活。孤独のうちに小さな幸福を探す日々。時々不幸。
・ エンジェルとの文通の開始。吉継の生活の充実。
・ 事件。エンジェル訪問計画の頓挫。
・ 文通の停止。
・ 文通の再会。エンジェル訪問の実現。
・ エンジェル宅で見つかる真相。


文通ものでは定番と思われる、いざ文通相手に会ってみたら〜、という展開。
今作での構造は、自分を不幸だと思っている吉継が、空想的な、「素敵な」人物としてエンジェルを置いているところである。エンジェルの存在、エンジェルからの言葉によって、吉継は自分の生活を「ラッキー」なものとして認識してゆく。
「何か素敵なもの」「幸せなもの」「自分にはない何かを持っているもの」としての、虚像としてのエンジェルの構築が、文通の前半で行われてゆく。


この時点では、エンジェルの姿は、少なくとも戦国武将ではない、一般人の女性として画面上には描かれている。だが、これとは別に、吉継の想像上のエンジェルは、外国風の城に居るお姫様のような人物である。ここに、視聴者(神の視点)からの「実際の」エンジェルと、吉継の想像上のエンジェルとのギャップが現れている。
(演出上、視聴者に「実際の」エンジェルをここで見せるのは……吉継と視聴者を乖離させるということになるわけで良し悪しはあるが……)


エンジェルへの憧憬が大きくなり、吉継はエンジェルに直接会いたいと言い出す。
これは吉継の、「ここより良いどこか」に行きたい、という逃避的・観念的願望と見れる。
だが、不幸な出来事によりこの計画は頓挫し、エンジェルとの文通も停止してしまう。


その後、作中では長い時間が経過。突然エンジェルから航空券が届き、エンジェル訪問が実現されることになる。
そこで、虚像のエンジェルの本当の姿に吉継が出会うことになる。
エンジェルの実像はどのようなものだったか?
お城ではない、都会の薄汚れたアパートに住む普通の女性。そして既にこの世の人ではない、と。


天使の逆転

虚像が崩れて実像に塗り替えられる瞬間は劇的なものである。
今作のこの塗り替えの瞬間はどうであったか。
一言では言い表せない程に複雜に、不幸と幸福が交じり合った姿を呈している。


エンジェルの実像は、そのアパート、その不在、そして最後の手紙によって明らかにされる。
何よりもまず、彼女は幸福とは言いがたかった。吉継を救ったかに見えたあの手紙で、本当に救われていたのはエンジェルの方だった、と。単純には比べられないとしても、孤独ながらも生きていた吉継に比べて、生死の境にいたというエンジェルの方がより深刻であったとすら言える。
不幸な吉継を幸福に導いたのは、不幸なエンジェルの言葉であった、と。


そして、エンジェルは吉継の訪問のその間近に死去した。吉継に旅費を送るための過労がたたって、と言われている。吉継に責任の一端はあるのかもしれない。不幸な出来事である。
このエンジェルの死の、「偶然のラッキー」は何だろうか?
孤独に死ぬはずだったエンジェルの最期を吉継が見届けたこと。吉継が最後の手紙を読んだこと。最後までエンジェルが吉継のための手紙を書いていられたこと。
そういうことではないだろうか。


本作の一連の出来事をエンジェルの側から追ってみるとどうなるだろうか。


・ 何らかの苦しみによる死の決意。
・ 吉継からの四つ葉のクローバーの手紙を受け取る。自死の中断。文通の開始。
・ 文通しながらの生活。
・ エンジェル訪問にまつわる事件。
・ 文通の中断、吉継の旅費を貯める。
・ 吉継にチケットを送る。
・ 最後の手紙。死去。
・ 吉継の訪問。


吉継との文通がなければ、チケットを買うための過労でエンジェルが死ぬことは無かったかもしれない。だが、最初の吉継からの手紙がなければ、エンジェルは自死を選んでいたかもしれない。
吉継との一連のやり取りを、エンジェルの最期の奇跡として見ればどうか。死の際にあったエンジェルが、最期に友人を得て、最期を看取ってくれる人を得たと見れば。ならば、エンジェルでなく、吉継こそが天使なのではないか。


天使としての吉継

視聴者の視点に戻る。
画面上に描かれる姿を見れば、現代世界の普通の女性のエンジェルよりは、戦国世界から来た、青い髪、包帯を巻いた姿の吉継の方が空想的である。
吉継の住むのは、日本人の視聴者から見ればよほどおとぎ話的な、(おそらく北欧の)異国の地である。これに比べれば、エンジェルの住む(おそらくアメリカの)雑然とした都会の一画は日本の現代に近い。
さらに、吉継の住む地で強調して描かれるのは、天上の光である。


空想的なのは吉継の方だ。
彼女は孤独に、だが純粋に生きる。悪を知らず、人並みの苦しみを抱えてけなげに生きる。
彼女は小さな幸運を、四つ葉のクローバーを探す。
もしかしたら、その幸運を、地上の人間に手紙に添えて送ってくれることがあるかもしれない。


本作において、本来の天使たる吉継は、「エンジェル」の名を持つ人間との対話を行う。
エンジェルに救われた吉継は、だが、最後には、自分の方もエンジェルを救っていたのだと気づく。
人を救えたという点において、吉継とエンジェルは対等である。
エンジェル亡き後、その最期に立ち会った吉継は、自分が「エンジェル」であった、と気づくのではないか。


エンジェルとの対話を通して、「エンジェル」の名を吉継が獲得する、そういう話として見れるのではないか。
天使が救うのは全人類かもしれない、或いは、エンジェルただ一人だったのかもしれない。