『虐殺器官』 罪と罰、そして死

前回(『虐殺器官』 抑圧者としての母、そして父 - doitakaの日記)に続き『虐殺器官』。前回ポストでは、母、子、父、の関係に着目したが、死、殺害、というモチーフについては正面から扱うのを避けていた。「母」が作品の裏面において支配的なモチーフであったとすれば、表面の支配的モチーフは「死」である。裏→表の順になったが、改めて、本作における「死」の扱いについて見てゆく。

「ぼく」とクラヴィスの世界

改めて作品を見る上で、「ぼく」と、クラヴィス・シェパードを注意して区別するようにしたい。
「ぼく」は作品の語り手であり、作品世界の創造者である。作者、あるいは、読者と同一視し得る存在である。
ラヴィス・シェパードは、「ぼく」が空想する架空の人物、キャラクターである、と見れる。
ラヴィス・シェパードは、あまりにも映画的・ゲーム的すぎる。つまりはフィクション的すぎる。日本語で書かれて、2000年代の日本に発表された作品において、米軍特殊部隊のナイーブな青年兵士という人物造形は、あまりにフィクションとして「日常的」である。「ぼく」は本当にクラヴィス・シェパードだろうか? そこにある種の断絶が、空想する・空想される関係が存在する、と見るのが適切であろう。
では、「ぼく」がクラヴィスを空想していたとして、クラヴィスの役目は何だろうか?


ラヴィスが生きて、各種任務を行う世界、これを「クラヴィスの世界」と呼ぶことにする。クラヴィスの世界は、「ぼく」によって空想される世界である。
ラヴィスの世界と対置すべきものがあるとすれば、それは死者の国である。


本作において支配的な他者である「母」は、「誰」の母であるか?
ラヴィスの世界の設定からすれば、「母」はクラヴィスの母であるに相違ない。だが、クラヴィス以上に、語りの主体である「ぼく」が、「母」を強く意識して世界を構成(=空想)している。クラヴィスに母がいる、というより、「ぼく」が「母」と相対する上で、クラヴィスというキャラクター、クラヴィスの世界を生み出した、と見るべきである。(死者の国において、「母」は「ぼく」を「クラヴィス」ではなく「息子さん」と呼ぶ)


対置的に見るならば、死者の国は、「母」の支配する世界である。一方で、クラヴィスの世界は、「母」不在の世界である。クラヴィスの世界は、その語りの始まりの時点から「母」を失っている。
死者の国の有、クラヴィスの世界の無。


作品の記述は、死者の国の光景から始まる。

 ここは死後の世界なの、とぼくは母さんに訊く。すると、母さんはゆっくりと首を振った。子供のころ、そうやってぼくの間違いを正したあのしぐさで。
「いいえ、ここはいつもの世界よ。あなたが、わたしたちが暮らしてきた世界。わたしたちの営みと、地続きになっているいつもの世界」
 そうなんだ、とぼくは言う。安心して涙がこぼれた。かなたの行進には見慣れた顔がいくつもある。小児ガンで逝ったベンジャミン、頭を吹き飛ばした父さん。
 すると、母さんはぼくの手をとって、行進へとみちびいてくれる。
「さあ、いきましょ」
 ぼくはうなずき、母さんとともにかなたの死者たちへと歩いてゆく。

まるで、何かの作品のラストシーンであるかのような、大いなる合一、安らぎ。
「ぼく」が死者となって、「母」を含むすべての死者たちと同じ世界に在る、という幻視。
これは何か?


ラヴィスの世界は、死者の国と比べれば「リアル」な、我々読者の日常に近いと思われる世界である。少なくともそのような世界であるところから語りは始まる。
ラヴィスは、その世界の中で、死に最も近い存在として描かれる。
彼は殺人者である。
何故人を殺すのか?
虐殺を止めるため。
本当に?


ラヴィスに付された「ぼく」の願望は何か?
死に触れること。そのために彼は兵士として造形される。
死に触れたいのであれば、黙ってさっさと一人で死ねばいいのではないか?
死に意味を見出すこと。
死の意味とは?
殺すことの罪、それへの罰と赦し。
それで?
死者の国の大いなる安らぎ。


ラヴィスの世界は、最初から無意味な死に覆われている。
「母」の死
・組織の命でクラヴィスが殺した人々
・遠くの国での虐殺

元准将の発言。

「たのむ、教えてくれ、俺はなんで殺してきた」

無意味な死と理由のない殺害。
これらこそ、「ぼく」=クラヴィスが抗うものである。
意志をもって行われる殺害、その罪を背負うこと、その罪が罰され赦されること。大いなる和解と合一。


ラヴィスは、組織の命により、ジョン・ポール、そして、「母」の模造品のルツィアを追う役目を得る。
ジョン・ポールは、意志を持って世界中の人間を殺害してきた人物として造形されている。ジョン・ポールは、「ぼく」がクラヴィスというキャラクターを通して到達しようとした、理想像的なキャラクターと見れる(虐殺の文法=ことば、は、おそらく「ぼく」にとって最もリアリティのある力だったのであろう)。
ジョン・ポールがなぜ理想的か? 彼がこれから世界中の人間を虐殺できるから?
おそらくそうではなく、彼が、既に起きた虐殺の罪を背負っているから、であろう。
ジョン・ポールは全ての罪の概念である。それを、「ぼく」の肥大化した罪の意識の具現化したもの、と言い換えてもよい。
「ぼく」の罪の意識は、ミクロレベルでは母の殺害から始まり、ジョン・ポールを経由することでマクロな世界中の罪に接続される。「ぼく」=クラヴィス=ジョン・ポールは、世界中の罪を集約する観念的装置となる。
ラヴィスの世界では、そこにルツィアが配置される。ルツィアの視線は、クラヴィス、ジョン・ポールを捉え、そこに罪の存在を認める。そして、その罪に罰と赦しを与える。ルツィアが鍵である、大いなる合一への。


「ぼく」の始発点のクラヴィス、クラヴィスを導き、全ての罪へと接続する先導者となるジョン・ポール、罪に罰と赦しを与えるルツィア。三者の合一は、あの死者の国の大いなる合一につながるはずであった。
しかし、語り手たる「ぼく」は、彼等を無意味な死に屈服させる。


「母」、地獄、真空

「母」のいる死者の国の描写は、三度行われる。
最初の死者の国では、穏やかな死者同士の和解の姿が描かれる。
二度目の死者の国で「母」は「自分が肉だということ」を受け入れろ、と言う。
三度目の死者の国では、「母」は「ぼく」の母殺しの罪に赦しを与えることを拒否し、「ぼく」がそれまでに犯した殺害の罪から逃れることを非難する。


「母」の視線は、クラヴィスの世界の外にあり、そこから「ぼく」を見つめ、追い立てる。
三度目の死者の国は、第三部の冒頭、クラヴィスの物語がジョン・ポール、ルツィアを巡る「本題」に入る直前に位置している。
三度目の死者の国で、「母」は「ぼく」を抑圧するもの、恐怖の対象として描かれる。端的には、クラヴィスの世界での出来事は、全て、この「母」の視線から逃れるための茶番でしかないとすら言える。
「母」は「ぼく」が罪から逃れることを非難した。その結果どうなったか。クラヴィスの世界に、世界中の罪を背負う装置としてジョン・ポールが現れた。
「母」は「ぼく」に赦しを与えてくれなかった。その結果どうなったか。クラヴィスの世界に、「ぼく」=クラヴィスに赦しを与える装置としてルツィアが現れた。
強い他者としての「母」。クラヴィスの世界の背景には常に「母」の視線がある。


ジョン・ポール、ルツィアはどうなったか? 二人とも、あっけなく、無意味に死ぬ。
「ぼく」=クラヴィスが必死に意味を見出そうとしていた死は、その無意味さ、空虚をさらけ出す。
アレックス、ウィリアムズ、ルツィア、ジョン・ポール。クラヴィスの物語を彩ったキャラクターたちは死に、「ぼく」=クラヴィスは孤独を得る。


p381

 だが、ルツィアは死んでしまった。もはやぼくを罰したり赦したりしてくれる人はどこにもいなくなってしまった。
 いま、ここにある地獄。ぼくは自分という地獄に閉じこめられた。地獄はここにあるんですよ、というアレックスの声。そうとも、いまぼくは最悪の地獄に堕ちた。罰せられることを、その果てに赦されることを期待して、こんなアフリカの奥地にやってきたのに、そこに着いたとたん罰も赦しも壊れて消えてしまった。
 これこそが罰なのだろうか。死ぬまでの時間ずっと、罪を抱えて彷徨うことが。


p384

アレックス、ルツィア、ジョン・ポール。そのすべてが遠い過去の出来事のように思い出された。あのとき覚えたはずの感情、あのとき得たはずの洞察。そのすべてがリアリティを失って、壁に隙間なく貼りつけられたスナップ写真のように、全体のディテールのごく一部へと還元されてゆく。


罪だけが残り、罰も赦しもない世界。無意味な死の世界。
死に意味がなければ、死者の国の大いなる合一という幻想が虚影であることが明らかになってしまう。


「ぼく」=クラヴィスにとどめを刺すのは、「母」ライフログである。
死者の国からの「母」の視線によって駆動したクラヴィスの物語。これは、クラヴィスが家で母からの視線を感じていた、という物語中の設定と同期するものである。
もう一度問う。死者の国の大いなる合一とは? 端的に言えば、他者たる「母」と「ぼく」の和解である。
ラヴィスの物語は「母」の視線により駆動した。つまりは、「母」への渇望、「母」との和解という望みが「ぼく」を動かした。死者の国とは、「ぼく」の願望の至る場所である。

では、「母」ライフログとは何であろうか? それは「ぼく」の綴った物語たち(死者の国、クラヴィスの物語)と同じではないか。つまり、ライフログとは「母」の願望を具現化したもの、「母」自身の死者の国にほかならないのではないか。
他人の願望はただグロテスクである。
「母」の死者の国が「ぼく」の死者の国と別もので、そこに「ぼく」の居場所がないということ。この事実は、死者の国が、実現されることのない個人の妄想でしかないことを「ぼく」に突き付ける。
「母」の視線によって駆動していたはずのクラヴィスの物語は、ここでその原動力を失う。
あの大いなる合一は幻でしかなかった。
和解は永遠に為されない。


死者の国の合一=「母」との和解、が目的であったとすれば、虐殺の文法による虐殺とその罪を背負うことは手段に過ぎない。全世界的な虐殺という空想的な極限にある罪、つまりは全ての罪を背負うということ。全ての罪を背負ったフリをしても死者の国にたどり着けなかった滑稽な「ぼく」。
目的を失ったクラヴィスの物語は絶望に終わるはずである。だが、エピローグで、「ぼく」=クラヴィスは、まるで余興であるかのように虐殺の文法を振るう。
ここにおいて、目的と手段が転倒した、と言えるだろうか?


本作において「ぼく」を駆り立てるものを追った時、たどり着くのは「母」の存在である。
だが、「ぼく」と「母」の葛藤劇を描くのに、ここまで死、殺害のモチーフを色濃く出す必然性がどこにあるか?


エピローグで、「ぼく」=クラヴィスによって、クラヴィスの世界は死に覆われる。
それは、「ぼく」が夢見た、甘美で満たされた死者の国ではない。また、抑圧者たる「母」が勝利した世界でもない。
無意味で空虚な死によるクラヴィスの世界の終焉、それは即ち、「ぼく」の葛藤の終焉である。


ひとつ望みがあるとすれば、最初の死者の国で、「ぼく」が死んでいた、という点だろうか。
まだ生きているクラヴィス。あの世界でクラヴィスが死んだ後、彼の望む死者の国に行けないとも限らない。
虐殺者がいなくても、他者がいなくても、最後には支配的な死がやって来て、それに「ぼく」は屈服する。
真の死と沈黙、あるいは安らぎ。


まとめ

死から出発したつもりで、結局、母の話題になってしまった気がするが……。
一旦ここまで。