『インテリぶる推理少女とハメたいせんせい』あるいは「せんせいは何故女子中学生にちんちんをぶち込み続けるのか?」


パンクなタイトルである。
そして、内容も相当にパンクである。
タイトルに「推理」と入るだけあって、ミステリ的な要素が入ってはいるのだが、自分が別にミステリに詳しくないのでその辺は語れない。ただ、本作は小説において語るということについて意識的で、その境界をガツガツ攻めてくる意欲作なので、その辺を書いてみたい。


まあ、面白かったということです。

小説における言語作用

小説において言語はどう働くか。
小説作品における言語の働きには、大きく以下の2つの方向性があると言えるのではないか。


① 言葉によってあるイメージを構成する
② 既知のイメージを言葉によって解体する(そして再構成する)


極論的には、①は②に含まれると言ってよいかもしれない。
①は、「見たことのない光景を見たい」「夢に見たような光景を見たい」という欲望に応えるものと言える。
②は、読み手が既に持つ認識を、ひいては読み手自身を解体し、再構成する。これは、ある自覚された欲望に応えるというよりは、欲望も含めて読み手の存在そのものを揺さぶる作用と言える。


どちらのケースにおいても、言葉は、あるイメージを構成/解体するものとして作用する。そこには、言葉によってもたらされる変化がある。この構成/解体に伴う変化に巻き込まれることが、読み手にとっての小説を読むことの快楽と言える。


『インテリぶる〜』における言葉の作用は、前述の区分のどちらのタイプと言えるか。②と言うべきであろう。
いわゆる普通のミステリ作品において、探偵による推理は、①の方向の言語作用であると言える。探偵による推理は、謎に包まれた事件の「真相」である。探偵が「真相」を語る時、それまで明確な像を持たなかった事件の全容が鮮やかに描き出される。イメージが構成されることの快楽を読者は味わう。
だが、本作における推理少女・比良坂れいが語るのは妄想的な、個人的な欲望・願望によって歪められた「真相」である。語り手の「せんせい」と、推理少女・比良坂による語り・推理は、互いに互いを歪め、否定し合い、「真相」は語りの渦に沈んでゆく。

二人の語り手

小説において語り手は特権的な地位を持つ者である。
本作は「せんせい」による一人称で語られているため、当然ながら語り手は「せんせい」であり、彼こそが作品における特権者となる。
だが、ミステリ作品にはもう一人の特権者、探偵が存在する。そして本作の探偵は、推理少女・比良坂れいである。


作中において、二人の特権者の力関係はどうなっているか?
地の文の語り手である以上、「せんせい」の力は揺らがない。だが、彼の力は作品内では著しく弱められている。
「せんせい」には記憶がない。「せんせい」の記憶・過去は比良坂の証言で作られる。「せんせい」は描写をさぼる。「せんせい」は欲望のままに行動し過ぎる。「せんせい」は処女以外を認識できない。
全能者たりえる一人称小説の語り手でありながら、「せんせい」は白痴的で無力なものに貶められている。
一方で、比良坂れいはどうか。比良坂は「せんせい」の欲望の対象であり、作品開始時点で文芸部唯一の、最後の処女である。比良坂は推理少女である。比良坂の推理は、比良坂の言葉は、作中現実を捻じ曲げ、「真相」を作り出す。


作品は比良坂の言葉から始まる。

「……せんせいにはわるいうわさがあるのです。文芸部の娘たちに、次々にわるいことをしているとか、どうとか。もちろんわたしは、せんせいがいいせんせいだと知っていますから、わるいことなんてするわけがないんだって信じています。けれど、この状況から顧みるに、もしかしたらもしかするのではと思ってしまったのです。

この言葉は、「せんせい」が何者かを定義する。
読者≒「せんせい」は、視線の先にいる比良坂のこの言葉によって「せんせい」に、強姦者になる。
「せんせい」と比良坂の、語られるもの・語るものの関係、及び、犯すもの・犯されるものの関係はここから始まる。

せんせいは何故女子中学生にちんちんをぶち込み続けるのか?

「せんせい」と比良坂が作品におけるキーパーソンであることは明らかである。
では、本作を駆動させる原理はどこにあるか。
これは、原題にある通り、「せんせい」の欲望である、強姦すること、にある。
では、強姦することとはどういうことか? せんせいは何故女子中学生にちんちんをぶち込み続けるのか?


「せんせい」は、処女以外を認識できない。
p186、比良坂の言。

 わるいうわさがたった後、つまりせんせいとみんなが深く結ばれた後、せんせいはみんなに対する扱いを変えました。注意深く観察していないと分からないぐらいでしたが、突き放すような態度を取るようになっていました。まるでその他大勢を扱うかのようでしかありません。なちとかをモブキャラみたいに扱っています。視界に全然入れないのです。

ならば、「せんせい」にとって強姦とは、他者を自分の世界から消すこと、殺害することにほかならない。
他者を欲望するが故に(愛するが故に)、その対象を永遠に失ってしまうのが「せんせい」である。
「せんせい」の暴力的な他者の希求は、終には「せんせい」自身を孤独の世界に落とす。
だが、その真の孤独に至る瀬戸際において、最後の他者として現れるのが比良坂れいである。


冒頭では、「せんせい」の欲望の対象でしかないかのように見えた比良坂れい。
作品が進むにつれ、舞台の「島」における状況は、比良坂によって作られたものである、と明らかになる。文芸部の女子を「せんせい」に犯させ、比良坂を文芸部最後の処女にしたのもまた比良坂である。
そして比良坂の行動原理は、「せんせい」への欲望である。


破壊的なコミュニケーションによって孤独に向かうのが「せんせい」ならば、強烈なエゴによって永遠を作り出そうとするのが比良坂である。二人の語り手は、それぞれの欲望によって破壊者と維持者の役割を得る。


作品の後半では、二人の語り手による「真相」の語りが地の文を侵食し出し、それぞれがそれぞれに作品のオチをつけようとする。そしてその度に、それぞれがそれぞれの欲望によってそのオチを否定する。
破壊者たる、読者≒「せんせい」は、比良坂の語る「真相」に屈し、愛すべき他者=比良坂と結ばれる永遠への堕ちてもよかったかもしれない。だが、本作の「せんせい」は、そのような終幕をよしとしない。


「せんせい」の欲望は、強姦=破壊的な他者の希求、である。が、これは一次的な姿に過ぎない。「せんせい」の露悪的な態度は罪悪感の裏面である。
「せんせい」の駆動原理は、「強姦がしたい」なのではなく、「自分には強姦しかできないのではないか」という疑義である。
ならばこそ、「せんせい」の対である比良坂は、「せんせい」が孤独に陥らない永遠の世界を推理によって作ることを欲望する役となった。
「せんせい」は、創造者たりえる比良坂に、自分の疑義を打ち破りつつ、自分が孤独に陥らない世界を推理して欲しかった。破壊者たる自分を解体し、あり得る姿に再構成して欲しかった。再構成の欲望、充足、否定、その繰り返し。


結末はどうか。

更生の余地がないのならばさっさとこの首を落とせ。彼女に与えられるものがないのならば呼吸をする価値もない。十三歳の恋心みたいに消えろ。