「ホーリー・モーターズ」 映画と人生と

http://www.holymotors.jp

観た。


傑作と呼んでもいいのではないか。人生、映画そのものを描いた、という感じ。体験として満足した。
総評的なことができるかどうかは怪しいが、以下、場面を思い出しながら書いてみる。細かい記憶違いはあるかもしれないが勘弁。
完全にネタバレになったので注意。
















オープニング

いかにも「映画」という古めかしいフィルムから始まる。子供? 大人? の男が動く様が映っている。
それを視ている? 席に並んで座っている観客達の姿が映る。観客達の顔は影になっていてよく見えない。そもそも観客がどちらを向いているのかがよく判別できないが、よくよく見ると観客はこちら側を向いているようである。明るいスクリーンを向いているはずなのに、顔が暗いのはおかしい。
船の汽笛のような音が断続的に響く。モーターが回っているような? 機械音が響いている。
(何かがおかしい絵面。「映画を観る」行為を意識しているらしいことは分かる)


場面が切り替わり、どこかの部屋でベッドに寝ている男。ベッドの隣には犬も寝ている。
男は起き上がり、こちらに背を向けてベッドに腰掛ける。タバコを取り出し火をつける。男の顔が明るくなる。男はベッド上のランプを灯す。
男はサングラスをかけて立ち上がり、部屋の壁に沿って、壁に手を当てて確かめるようにして、反時計回りに歩く。カメラは男の背を追って回転する。汽笛の音は相変わらず続いている。
部屋はホテルの一室のようである。台に男のものと思われるトランクが置いてある。
角を曲がると、横に広い窓がある。外は夜で、遠くに車が行き来する道路が見える。飛行機らしきものが飛ぶ。
次の角を曲がると、壁一面が黒地に白い林の絵になっている。男は驚いた様子? で壁の絵を見つめる。男の横顔がアップになる。
男は壁の中央付近に何かを探り当てる。何か? そこに鍵穴らしきものがある。男はそこに中指と一体化していた鍵を差し込み、回す。鍵が開いたのかどうかよく分からないが、男は鍵をガチャガチャと引っぱり、結局その壁をぶち破って奥へと進む。


壁の向こうは暗くて狭い通路。赤いランプに向かって歩き、ドアを開けると、そこは劇場の二階席のようである。
席から下を見ると先ほどの観客達がいる。座ってスクリーンを視ているようである(例によってよく見えない)。
観客達のいる一回の通路を、幼児のような何か(猿かも?)が、スクリーンに向かってたどたどしく歩く。
その後を大きな犬? が追って歩く。


場面が切り替わり、船窓のような丸い窓の中から、こちらを見つめる少女が映る。周囲の壁は白く、時刻は昼のようである。汽笛の音は止まって、静かな屋外の音。
カメラはゆっくりと引いてゆき、それが、白く大きな家の窓であることが分かる。



……というのが、(おそらく)オープニングである。
視線、視る行為が強く意識される。だが、一方で無表情・無貌でもある。この場面の動き手である男でさえも、サングラスで眼を隠している。
観客達の視線の先には何があるか? 映像の流れ的には、男とその部屋を視ていた、という印象になる。だが、男は、「鍵」を使って壁(=スクリーン?)を破って外に出た。
あるいはこれは、循環的な構造なのかもしれない。壁を出た男は、その先で他の観客と同様にスクリーンを視る側の者になったのかもしれない。そして、男の視線の先には、別の男がいたのかもしれない。
視ることと視られることの循環。人生と映画の循環。
丸い窓はレンズを象徴しているのか? 私と少女はどちらが「見つめる者」なのか。


1番目のアポ:銀行家

白い家から、壮年のビジネスマン風の男が出てくる(オープニングの男とは別人)。そして、運転手に迎えられて、本作の影の主役たる、白いリムジンに乗り込む。
男は「今日のアポは何件だ?」と問い、運転手は「9件」と返す(アポの意味は後で明らかになるが、この時点では視聴者には何のことだか分からない)。
男は「最初のアポ」の資料に目を通す。
どこからか電話がかかり、男は銀行家風の応答をする。


電話が終わった後、男は女物のカツラを取り出し、メーキャップ用の化粧台(リムジンの席に備え付けられている)に向かう。

2番目のアポ:老婆

リムジンが川沿いに停まると、中から杖をついたみすぼらしい老婆が出てくる。男が変装した姿。
男(老婆)は、橋の上でフラフラと立ち歩き、通行人に物乞いをする。


男(老婆)は、「老婆らしい」世の中への恨み言を吐きながらうろつく。
男は詩句を文字通り体現している。詩を演じている。そう見える。この男は役者であると。


まだこの時点では、視聴者からすれば「銀行家が老婆に変装している」ように見えている。例えば、銀行家が世相調査のために乞食として通行人を観察している、などと意味づけができる。
しかしそれが見当違いであることは、男がリムジンに戻った後で分かる。

3番目のアポ:モーションアクター

リムジンに戻った男は老婆の変装を解く。が、解いた先にいるのは先程の銀行家ではない。坊主頭の、年齢不詳の男である。
老婆は男の変装した姿であった。だが、銀行家もまた、この男の変装した姿でしかなかった。この男は何者か? このリムジンは何だ?


男は次のアポの資料に目を通す。
リムジンはどこかの大きな施設で停まり、男は全身を覆う黒いタイツ姿でリムジンを降りる。体中には白いボールのようなものが付いている。モーションアクターの姿である。
男は施設内の暗い部屋で武器を持っての殺陣を披露したり、銃を持って走ったり、女のモーションアクターと情事の真似事をしたりする(予告映像で印象的な、モーションアクターが走るシーンがここで出てくる)。


ここに来て、男は個性を全く剥ぎ取られ、「動く点の集合」として視覚化される。動作の痕跡が匿名のデータとなり、CGのキャラクターの動きに適用される様が映る。
個性・人格の無い、アクションする主体として抽象化されたものとしての男。彼は運転手に「オスカー」と呼ばれる。百面相の役者、オスカー。オスカーが誰かの役を演じる世界=アポ。アポとアポの中間にある境界としてのリムジン。聖なる自動車?
オスカーは何故演じるのか?

4番目のアポ:狂人

次にオスカーが演じるのは、ゴジラのテーマと共に墓地に現れる狂人である。髪と髭をぼうぼうに伸ばし、緑色の上下でステッキを持った姿。手足の爪も伸び放題。
狂人は墓地の献花をかっさらって食べたり、通行人に襲いかかったりする。
墓地の先ではたまたまカメラマンがファッションモデルの撮影を行なっている。カメラマンは狂人を見て創作意欲を刺激されたようで、アシスタントを通して「撮らせてくれ」と交渉するが、狂人はアシスタントに襲いかかり怪我をさせた上、モデルをさらって逃げる(その様をずっとカメラマンが喜んで撮影している)。


狂人とモデルは地下の暗い洞窟? のような空間に逃げ込む。狂人はフランス語でなく謎の言語を話すが、身ぶり手ぶりやらその場の雰囲気やらでモデルとなぜだか意思疎通をする。
狂人はモデルの服を噛みちぎって作り変え、モデルはアラブ圏の女性か、あるいは聖母のような、全身を布で覆ったような姿になる。モデルは石のベンチに腰掛ける。狂人は服を脱ぎ、裸になってモデルの膝を枕に横たわる。狂人は落ちていた赤い花弁を拾って、自分の胸〜腹にふりかける。モデルは子守唄を歌う。聖母とキリストの宗教画のような場面が作られる。


オスカーは何故演じるのか?
オスカーのアポは、明らかに観客の視線を意識したものである。
今回のアポでは、通り一遍のファッション誌の撮影風景が、野蛮な狂人の力によって変転し、美醜の混じった聖なる場面へと作り変えられた。カメラマンは、その作り変え行為を肯定する観客の象徴と言える。「何か」を目にすることに対する期待、期待のこもった視線。視線の先に役者が出向き、場面が作られる。


5番目のアポ:父親

派手な狂人の役から一転、次のアポでオスカーは小型の乗用車に乗る普通の小男になる。
小男が車を停めると、マンションから少女が歩き出て、車に乗り込む。小男の娘らしい。


父親と娘の会話は省略。細かく覚えてないし、これは実際に観たほうがよい。


娘は父親に嘘をついていた。父親は娘を叱る。車を降りる娘に父親は言う。
「お前の罰は自分の人生を生き続けることだ」


束の間の、演じられた人生を転々とするオスカーが娘の嘘を非難する?
「自分の人生」とは?
「自分の人生」を生き続けることが罰ならば、アポを転々と生きることは何であるというのか?

インターミッション

アコーディオン弾く所。ここは文句なしに素晴らしい。

6番目のアポ:暗殺者

ややこしいがこんな感じの作戦だったようである。
・オスカーがヤクザもん風に変装。
・ターゲットに接近し、ナイフで首を一突き。
・オスカーがその場でターゲットの死体を変装させ、オスカーと同じ外見にする。
・ターゲットは失踪し、オスカーが変装したヤクザもんが殺されたことになる。


しかし、実際にはオスカーがターゲットを変装させている途中で、実は死んでいなかったターゲットがオスカーの首を一突きする、という事態になった。これにより「全く同じヤクザもんの外見をした人物が二人横並びで倒れている」という絵面が作られる。
普通に見れば、主人公らしき存在のオスカーが殺されるという非常事態だが、オスカーはなぜかヨロヨロと立ち上がり、リムジンまでフラフラしつつ到着、運転手に拾われる。そして、リムジン内で変装を解いたオスカーは血痕こそ残っているものの怪我からは回復している。


見るべき点は二つ。
第一に、変装はオスカーだけがするものではない、ということ。オスカー以外の人間であっても、姿が変わることで、演じ変えられることで、別の人生を歩むことになり得る。ある時オスカーの演じた人物が、またある時は別の誰かが演じた人物であったかもしれないということ。果たしてある人物の人生は本当に連続しているのか?
第二に、オスカーの演ずる人物が死んだとしても、それはオスカーそのものの死ではないということ。オスカーが死を演じることと、オスカーの消滅とは同義ではない。
死。 死のテーマがここから現れる。聖なるリムジンと、ひとつの人生の終息と。


この後、リムジン内に変なおっさんが出現してオスカーと禅問答をする。
視ること・視られることへの内省的な会話。内容忘れた。


7番目のアポ:鉄砲玉

※ これは本当にアポであるかどうか不明だが、数的にちょうどよくなるのでアポとしてカウントした。


リムジンに乗って移動していたオスカー、窓の外に誰かを見つけて、目空き帽を被って銃を持って急いで降りる。
向かった先にいたのは、あの銀行家である。オスカーが引き金を引き、銀行家は倒れる。オスカーは周囲にいたボディーガードらに蜂の巣にされる。オスカーの死体を運転手が回収する。


前のアポに引き続き、ドッペルゲンガー的な、自己同一性、自己不連続性の問題に触れるエピソードとなっている。
殺したのはオスカーだが、殺された銀行家を演じていたのは誰だったのか? 銀行家を演じていた誰かがいたのであれば、この殺害劇によって「殺された」人間は存在するのか? 「銀行家」という役が消滅しただけなのではないか? だが、役が消滅することは殺人とイコールではないか? 果たして人生は連続しているのか?


8番目のアポ:老人

オスカーは老人に変装し、高級そうなアパートに入る。
老人はパジャマでベッドに寝る(ベッドには犬がいる)。
若い女が現れる。女はどうやら老人の姪らしい。
今際の際の老人と女のお涙ちょうだいの会話。老人は「愛してる」と言って息絶える。
一度息絶えた老人はしばらくして起きだす。
オスカーが「次のアポがあるので」と女に告げると、女もうなずく。オスカーは女に本名を聞いてから部屋を後にする。


ここに来て、隠すこともなく、「死」が演じられるものとしてはっきり示される。
だが、死そのものを茶化しているわけではない。
ひとつひとつのアポにおける人生と死が軽く扱われるのと対照的に、5番目のアポにおける問いかけ、「自分の人生」が重みを帯びてくる。
また、死の重さは、オスカーのアポの外の時間において、他者のアポにおける死の形でつきつけられる。

女役者のアポ

オスカーの乗るリムジンは、同じ姿格好のリムジンと接触しそうになる。そのリムジンに乗っていたのはオスカーの旧知の女役者だったようである。
オスカーと女役者は「30分だけ」と言ってウン十年ぶりに再開した恋人的な会話をする。
オスカーは前のアポの老人の格好で中途半端にメイクが取れた姿である。


オスカーと女役者が別れた後、女役者は恋人と心中するスチュワーデスの役を演じ、ビルを降りたオスカーの前に投身自殺をした死体が投げ出される。オスカーは叫び、リムジンに乗り込む。


この時のオスカーは誰かの役を演じていたのか?
これすらも「オスカー」という役のアポであったのかもしれない。
これまでのアポで、死者の役を演じ、それを無数にある人生=死のうちのひとつであるとして乗り越えてきた身で、自分にとって特別だからという理由で「他人の死を悲しむ」などということが許されるだろうか? だがそれを平気でやり過ごすこともできない。


無数の人生を渡り歩く者の業。
自分の人生を生き続けることが罰であるのならば、無数の人生を生き続けることも同程度に罰である。
自我境界のゆらぎ。感情の摩耗。役としての生と、「自分」の生の摩擦による傷。
前半のアポの合間に、オスカーは「森のアポに行きたい」と言っている。それがどういうものかは分からないが。


傷心の? オスカーは運転手に話しかける。運転手の人格・個性と接触することで、「自分」の生を固定したがっているかのように。


9番目のアポ:帰宅者

この日のオスカーの最後のアポは、「妻と娘のいる自宅に帰る男」である。
新興住宅地風の、全く同じ見た目の家が並ぶ道でオスカーはさえない男性の姿でリムジンを降りる。
明日の朝、同じ時間にリムジンが来るという。


リムジンは去り、男は鍵を使って家のドアを開ける。家には妻と娘がいるが、どちらもチンパンジーである。
「もしも人生がやり直せたら〜」みたいな歌がBGMに流れる。
二匹のチンパンジーを脇に抱えた男が、二階から窓の外を見上げる絵で、オスカーの一日は終わる。


これが役者の業の行き着く先を戯画にしたものであろうか。
さえない中年、言葉の通じない家族。
明日になれば別の人生を送れるという「希望」。
「何か」を視ようとすることを止められない、業。


エンディング

無数のリムジンが仕事を終えて「ホーリー・モーターズ」の地下駐車場へと入っていく。
オスカーのリムジンでは、運転手が表情を隠す仮面をつけてからリムジンを降りる。
人がいなくなった後、リムジン同士のヒソヒソ話が始まり……最後は「アーメン」で終わる。


まとめ

あのリムジンは何であろうか。
オスカーがリムジンを出る度にひとつの人生が始まる。それが他愛のないものであっても、痛みを伴う結末を迎えるものであっても。
ドアを開ける度に、人生が動き出す。無数のドアから、無数の人生が。ならば劇場のドアもまたそういうドアのひとつであろう。


ある人生を視る無数の視線がある。そして人は視る者であると同時に視られる者でもある。無数の視線に晒されていた者が、その無数の視線のひとつになる。逆に、無数の視線のひとつでしかない人生ですら、さらに無数の視線によって視られているかもしれない。人は視る・視られることを、演じる・演じられることを止められない。


インターミッションでアコーディオンを弾いて歩くオスカー。後を続く楽団。楽団の視線を一身に集め、先頭に立ち演奏を指揮するオスカー。無名の奏者の熱狂。後に摩耗し尽くすとしても。