続「ゲーム」の定義
最近また考える機会があり、もやもやしているのでまとめ。
以前書いたもの。
http://d.hatena.ne.jp/doitaka/20100708/1278546241
自分の考えは、以前書いたものから変わっていない。
「ゲーム」の定義の前に「遊び」の定義がある。
「遊び」とは、(ただ)生きるのに必須ではない、許された、余剰的な行為である。
生存に関する制約・強制がない故に自由である。
「学び」にも通じる。
あらゆる行為、体験が「遊び」になり得る。
歌を歌う、踊る、散歩する、おしゃべりする、川で泳ぐ。
酒を飲む、お茶を飲む、もそうかも。
プラモを作る、写真を撮る、のも。
「ゲーム」は「遊び」の中で、特にルールに力があるもの、である。
例えば、酒を飲んでいる席で、「ジョッキを一番早く空にした奴が勝ちな」というルール定義がされて、それに参加者が同意すれば、そこは「ゲーム」的な場になる。
ルールは、「遊び」の骨組みになるものと言える。骨があることで、巨大な構造を作ることができる。
対して、肉・皮膚に相当し、触感や、行為そのものによってプレイヤーを喜ばせるものは、ルールによって駆動される物理的、感覚的なメディアである。
ルールだけでは「遊び」にならないし、メディアとそれにまつわる単純な行為だけでは発展性を欠く。
「今から、富士山頂に最初に到着した奴が勝ち」と言ったらそれは、富士山をメディアとして使った「ゲーム」だろう。あまり普遍的なメディアではないが、メディアそのものの力は大きい。
「このトランプでポーカーやろうぜ」は、トランプをメディアとして使った「ゲーム」だろう。メディアが普遍的、一般的な分、「内容」としてのルールに則った「ゲーム」的行為の比重は大きい。
で、デジタルゲームをどう見るか。
原理的な、形而上学的な、行為としての「ゲーム」と、
製品、文化、メディアとしての「デジタルゲーム」とは別物として見る必要がある。
どう呼び分ければいいのか…試しに、ハード、ソフトを含めた系を「ゲームメディア」と呼んでみる。
「ゲームメディア」はそれ自体、固有の世界を持っていて、それをプレイヤーは体験することができる。
「ゲームメディア」は、「ゲーム」と相性がよい。「ゲーム」を駆動する装置として適している。
パックマンをプレイする時、そこには確かにルールがある。エサを全て食べたらステージクリア、敵に当たるとミス。
だが、そのルール空間内で行為する前に、パックマンの「ゲームメディア」としての世界で、コントローラーの操作に応じて画面の映像が動き、パックマンが移動する、それらの体験自体が人を魅きつけるだけの楽しさを持っている、はず。
「ゲームメディア」は体験可能な世界で、そこでは「ゲーム」に留まらず、「遊び」もできる。「遊び」以外もできる、金稼ぎとか、お勉強とか…多分。
実際、ノベルゲームが出てきて、「これはゲームなのか」みたいな話によくなるわけだけど、「ゲームメディア」がそれだけメディアとして多様性を持てるってことじゃねーの。
まあ、デジタルゲームってのは、メディアとしての力が大きいシステムなのだろう。
ただ、単純な話、ゲームハードが「家にある唯一のコンピューター」だった時代と、コンピューターが一人一台どころではないくらいに増えてる時代とでは、ゲームコンソール自体が持つメディアとしての力は相対的に小さくなるよね、とか。
…まあ、現状が悪いわけではないと思うし、ゲームらしいゲーム作ることに価値がない、なんてことは全くないだろうし。時代遅れ云々という話は…どうでもいいな。
以上、考えをまとめただけ。
※ コマの触りごこちが最高に気持ちよくて、触ってるだけで勝敗なんてどうでもよくなるボードゲームとかいかがか。おっぱいボードゲーム、とは限らない…。