ゼーガペイン キョウとカミナギの選択について

ゼーガペイン、ようやく観終わったので色々まとめ。

テーマについて

テーマ=作品内の個々の要素を結びつけるコアロジック といった意味で使う。


ゼーガペインにおけるテーマは、以下になると思われる。


1. 何が本物で何が偽物か
2. いくつかの選択肢の中で何を選ぶか


1が初期の問題となるわけだが、これが発展的に解消した結果、2が最終的な問題として残る、という形である。なので、ラストから振り返って見れば、メインテーマは「選択」と言っていいだろう。

「選択」の対象

同語反復的な言い方になるが、「選択」を表現するには、差異のあるものを並べて見せるのがよい。
本作での「選択」の対象は、世界、及び、人間、である。


世界については、「仮想世界」対「現実世界」というSF的設定により、「偽物の世界」対「本物の世界」の対比が提示され、また、世界を選択する行為にもつながった。可能性としては、ガルズオルムに支配された現実世界=デフテラ領域に覆われた世界、も選択の対象であった。


人間については、「人としての在り方」が選択対象という形になる。選択肢は多彩である。
現実の人間、幻体(一般、セレブラント)、生まれつきの幻体、ガルズオルムの復活者、世界に統合された意識?(ナーガ)、くらいだろうか。
作中の人類にとって、「自分が何になるか」という問いへの直接的な選択肢は、幻体でいるか、人間になるか、の2パターンである。だが、「誰が味方なのか」「誰を愛することができるか」という所まで問いを広げると、さらに選択は難しくなってくる。この辺の難しい選択をさせられるのがキョウたち主人公である。

キョウの選択(自分編)

キョウは、ほぼ一貫して現実の人間に戻ることを望み続ける。


事例として、舞浜サーバーリセットによる水泳部消失を考える。
キョウにとっては5ヶ月間の努力により得た仲間の喪失である。さらに、リセット後、他人は記憶が戻され、喪失があったことすら忘れて、自分との認識に断絶が生じてしまう。つまりキョウたちセレブラントは孤独になる。これは、現実の人間への回帰のモチベーションとなる。


気をつけたいのは、
・ 「人としての在り方」を選択できるのはセレブラントだけ。
・ セレブラントにとっては現実世界と仮想世界は完全に等価ではない。
という点で、この意味で、本作における「選択」は純粋な問いとは言えない。
セレブラントという存在自体が、現実の人間への回帰のための機能であり、セレブラントでいる限りは、一般の幻体からは孤立せざるを得ない。


キョウと逆に、幻体でいることを選ぼうとしたクロシオだが、彼は孤立を受け入れ、現状維持を望んだに過ぎない。一般の幻体と交流を持たず、イリエと二人で人のいない回転寿司屋にいる姿は象徴的である。
キョウが、作戦に失敗し続け、自己の消失の危険性を認識し、現状維持を望んだ時には、クロシオと同じになる。
キョウとクロシオの違いは、挑戦者(成功者)と挫折者の違いでしかない。


…というのは理屈だが。
作中でのキョウは、セレブラントの原初の欲求の権化と言っていいだろう。制限つきの不自由な世界からの仲間たちの解放、本物の生への回帰。物語の本筋を動かす、真っ直ぐな主人公の選択である。
視聴者にセレブラントの原初の姿を見せる機能を持っている、とも言える。

キョウの選択(他人編)

他人編というかカミナギ編である。
キョウとカミナギの関係は、作中でめまぐるしく変わる。


キョウ(一般幻体) ー カミナギ(一般幻体)
キョウ(セレブラント) ー カミナギ(一般幻体)
キョウ(セレブラント) ー カミナギセレブラント
キョウ(セレブラント) ー カミナギ(舞浜:意識不明、アルティール内:セレブラント
キョウ(セレブラント) ー カミナギ(舞浜:感情なし、アルティール内:セレブラント
キョウ(現実の人間) ー カミナギセレブラント


それは、アンチゼーガ襲撃、復活者襲撃といった重要な出来事の結果として起こる。あたかもこれは、「人間」同士の関係の取りうる可能性の実験のようにすら見える。


特筆すべきは、アンチゼーガ襲撃後の、舞浜内とアルティール内で異なる在り方をするようになった状態であろう。
アルティール内という、限定された非日常的な場では「本来の」十全な姿でいるが、広大な日常の場である舞浜では寝たきりか、無感情になってしまう、という対比。この対比関係はそのまま、舞浜サーバと現実世界の対比関係と同じ形を取る。十全だが限られた世界と、欠けているが広大な世界。主人公たるキョウが二人のカミナギのどちらを選ぶか、は、人類がどの世界を選択するか、という問いと直接リンクする。
寝たきりのカミナギは復活者の手により修復され、感情はもたないものの自分の意志で動けるようになった。この出来事は唐突で、正直話の急展開についていけない部分もあったが、「本来の」カミナギと、何かを失ったカミナギの対比を残しつつ話を進めた、という意図なのだろう。


では、この選択の場でキョウはどうしたか? キョウには選択という行為すらなく、ただその場にいるカミナギを受け入れるだけだった。意識不明のカミナギに話しかけ続ける、感情のないカミナギのそばに居続ける、という行為により顕著である。最初から選んでいるのは「カミナギ」という存在そのものであり、それが人間であろうと幻体であろうと感情があろうとなかろうと構わない、これがキョウのシンプルな答えである。「人間とは何か」という問いを発する土台は用意されていたが、キョウーカミナギの関係にあっては問いすら発しない、という答えである。
キョウのこの姿勢は作中で成就せられ、キョウが現実の人間に戻る際、感情のない舞浜のカミナギに感情が戻る、という描写になっている。

カミナギの選択(他人編)

キョウと対比する形でカミナギを見る。
カミナギの役回りは、キョウが取りこぼした問い、より広い範囲での「人間とは何か」という問いへの回答者と言える。
キョウが回収した問いの範囲は、現実の人間、幻体、生まれつきの幻体、くらいまでだが、カミナギはその先の、AI、復活者をも含む。


簡単に結論を言ってしまえば、カミナギにも「人間とは何か」という問いは存在しておらず、それが人類とガルズオルムとの相互理解の可能性につながっている、ということである。
先入観なく全てを受け入れる母性的なキャラ、という類型の一種と言えるが、作中では、その、受け入れる力が、目まぐるしく変化する状況の中で自分の芯を見失わない強さとして描かれ、直接的にはゼーガのウィザードとしての力として表現される。
キョウの強さが「選ぶ」ことによる強さだったとすれば、カミナギの強さは「選ばない」ことからくる強さと言えるだろう。そして、その強さが可能にする無限大の共感力が、人類とガルズオルム、或いは、それ以外の存在との架け橋となる。
カミナギとシンの交流は、作品自体のもつ「人間とは何か」という問いの及ぶ範囲を拡大するものとして存在する。

まとめ

「人間とは何か」「何を選ぶか」という問いに対する答えは「自らのエゴで選んだもの」とするのが定番であろう。同じ結論が用意されているとして、どのようなルートでそこに辿り着くか、その過程をどう描くか、が物語作品でこれらの問いを扱う際のポイントと言える。


ゼーガにおいては、主人公のキョウが、強いエゴの持ち主として話を展開させ、「選ぶ」強さで答えを切り開いた。一方で、キョウを補完する存在としてカミナギがあり、「選ばない」強さで別ルートから同じ答えを補強した。
この二人の在り方を丹念に描いた末の、最終話での、島で会話する生身のキョウと幻体のカミナギのすがすがしさは、この作品にしか語りえない問いへの答えと言えるのではないか。