自己記述装置としてのゲーム、評価空間としてのゲーム

人間の感覚は外を向いているので、内なる「自己」というものは外界の刺激から想像するしかない。
世界に空いた孔としての「自己」。(円城塔烏有此譚』)


「自己を知りたい」という欲望は常に在り続ける。
己の痕跡を外界に残し、それを参照すること = 自己記述 = 己を知ること。


生きることは自己記述的である。


ゲームとはその場の状態を書き換え続ける行為である。
デジタルゲームであれば、メモリ、ストレージの状態を「己のもの」に変化させていく行為となる。


他媒体と比較してゲームに特徴的なのは、行為によって自己を記述する、という点である。行為の制約が緩く多彩である点。好きな行為を選べるという点。


だが、例えば文章による自己記述と比べて単純な行為による自己記述ではバリエーションが出ない。
ではどうするか。他人との比較は手っ取り早い自己記述手法となる。


量的・質的に評価可能な、ある行為の結果の集合としての空間 = 評価空間。その空間における位置によって記述される「自己」。
評価空間における位置は他人と共有できる。他人が描く己の像、と信じられる。


評価空間はそれだけでソーシャルである。同じ空間に在る他者との関係性が己を記述してくれる。同時に他者の記述を得ることもできる。


評価者を他人とする評価空間、すなわち、誰から評価されたか、どう評価されたか、どれだけ評価されたか、を評価値にする評価空間は二重にソーシャルである。評価主体が入り組んだ多次元の空間。そこでは「誰かに自己を記述して欲しい」という欲求が満たされる。その欲求に対するアフォーダンスのある空間とも言える。


システムとの対話が記述する「自己」と、他者との対話が記述する「自己」。
どちらを欲するか。それぞれをどう作るか。