「劇場版そらのおとしもの 時計じかけの哀女神」改竄される記憶と残る意志

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「俺は彼女のことを忘れない」


本作、オープニングのコメディパートの後、主人公が言う台詞である。
本作を語るには、この一言に尽きる。


以下ネタバレ込み。





本作は、『そらのおとしもの』原作コミック9〜10巻の内容をベースに、ほぼオリジナルのストーリーで構成されている。


本編は大きく前後半に分けられる。前半は、新キャラクター風音日和の視点から、過去2回のTVシリーズ放映回をダイジェストで振り返りつつ、放映された智樹達の出来事の裏で、日和がこれらの出来事をどう見ていたか、どう関わっていたか、を描く。
後半は、日和が新大陸発見部に入部してからの出来事、日和の事故死、エンジェロイド化した日和との戦闘、という新規のストーリーを描く。


完全にネタバレだが…風音日和にまつわる設定は以下のようなものである。
・ オリジナルの日和はシナプス
・ 地上の日和はオリジナルの日和が見ている夢のようなもの
・ 地上の日和が死ぬと「システム」が発動、地上の日和は最初からいなかったことにされ、日和にまつわる記憶、日和の痕跡が地上から全て消える。


作中で日和は新大陸発見部入部後に事故死し、智樹以外の全人類の記憶から消える。(エンジェロイド、シナプス人の記憶には残っている)
だが、オリジナルの日和は地上への再臨を望む。それは暴走するエンジェロイド化という形で成し遂げられ、日和は地上を攻撃しだす。智樹らは日和を止めようとする。智樹との対話で日和は正気に戻るが、自身に仕掛けられた自爆プログラムを解除できず、一人、空にて散る。


…というのが大まかな後半のストーリーである。ここから冒頭の智樹の台詞につながる。


本作は記憶にまつわる物語である、と読みたい。
風音日和は魅力的なキャラクターである。ある種の自虐性を持つキャラクターである智樹を、ありのままの姿で受け入れてくれる。照れによる否定を含みつつ受け入れる美月とは好対照を成す。
だが、そんな日和の記憶が、シナプスの「システム」によって消されてしまう。これは由々しき事態だ、憎むべき悲劇だ。「システム」が発動した後には、日和のいなかった世界の記憶が残る…はずである。


しかし、その「日和のいなかった世界」とは何か?それは、劇場に入る前に我々が「そらのおとしものTVシリーズで見てきた世界そのものではないか。


日和は最初からいなかった。少なくとも、我々の視界には入っていなかったし、その想いに触れることもできなかった。
だが、彼女は、本作前半の一連のシーンにおいて、そこにいた人物として明かされた。劇場という非日常空間の中で風音日和は我々の記憶の中の物語へと召喚された。我々の記憶は改竄された。彼女はそこに居た。


そして劇場での物語は後半に入り、我々は「システム」によって彼女の記憶を再度失おうとする。我々はこれを拒否する。我々は智樹である。
地上の彼女は一度消え、エンジェロイドとなって再度現れた彼女は今度こそ本当に帰らぬ人となってしまう。
だが、我々は、智樹は、「彼女のことを忘れない」。


我々は劇場を出る。彼女はいない。TVシリーズを見返しても、それは劇場内にあった彼女のいた風景ではない。
彼女はいない。だが、そこに「彼女がいた」と信じるのは我々の意志が為すことである。「彼女のことを忘れない」のは我々の意志である。




※補足1
率直に映画の印象を言えば、前半は総集編風な割にはやたら長い、後半はプロットがシンプル過ぎて物足りない、という感があった。
ただ、風音日和というキャラクターを描く、という点からすれば、前半は「彼女がそこに居た」ということを「思い出させる」ための儀式的なシーケンスだったと言えるか、と思い至り、上のようなまとめ方になった。実際、風音日和は魅力的に描かれている。
もう一回観たほうがいいのかも。


※補足2
漫画原作だと全然話が違って、色々あった挙句、結局日和はエンジェロイドとして地上で暮らしてた。映画見てから読んでびっくりした。12巻表紙にいるのは、別に最終登場巻とかそういう意味じゃなかった…。


※補足3
「そらおとF」には…たまに日和が出てた。BD版、雪合戦回(4話)、プール回(12話)にはいた…。いました。プロレス回ではリンゴ飴売ってなかったけどな。