ジュラール・ジュネット『物語のディスクール』
物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))
- 作者: ジェラール・ジュネット,花輪光,和泉涼一
- 出版社/メーカー: 水声社
- 発売日: 1985/09/01
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (21件) を見る
読んだ。
いわゆる物語論の必読書、らしい。
本作の勘所は、物語を、
・物語内容(histoire)
・物語言説(recit)
・語り(narration)
の3つの相に分けて論じている所である。
表題にある「ディスクール discours」は「言説」と訳されていて、つまりはテクストのことである、ということだそうで。物語言説が「ディスクール」と呼ばれていないのは、おそらく、「ディスクール」をより一般的な語として扱いたかったからではないか。
本作では、物語内容よりは、物語の語り方や、テクストそのもの、語るという行為、語りが行われる状況に注視して物語を読むための理論が展開される。要は、物語内容の「外側」でいかに多くのことが語られているか、多くのことを語りうるか、というような話である。
特徴は、その論理展開の明快さであろう。
基本的には、以下の形で論が進められている。
・論じる対象領域を提示する。
・対象領域を区分し、それぞれを指す用語を定義する。
・用例を挙げつつ内容を掘り下げる。
・プルースト『失われた時』でのこの領域の扱われ方を論じる。
各領域の用語を都度定義して進めているため、本書を「物語論の基本用語集」として扱うことも妥当と思われる。
というわけで、wikipedia の物語論の項にもばっちり載せられている。
物語論 - Wikipedia
用語という点では、上記の wikipedia ページで全て押さえられているので、これだけ覚えておいてもそれなりに物語論の参考にはなりそうだが…そこは、内容を理解して自分で考えないと…というところ。
結局この本なんなのよ
ということだが。
ジュネットが本書で挙げた問題領域が物語言説・語りについての理論の全範囲をカバーしているかと言えば、そういうことはおそらくないだろう。
時間、叙法、態、のそれぞれは確かに言葉による物語を論ずる上で中心的な話題と言っていいと思うが、物語言説・語りの関連領域はまだまだ広いはずである。例えば、詩・韻文の扱いとか、言葉の音・リズム・形態とか、演劇のようなテクストが多重になるケースとか、本歌取りみたいなテクスト間の関連性とか。
ということで、まずは、「コンパクトで中心的な、物語言説・語りに着目した物語論」として見れる。そういう意味では、時間、叙法、態、のそれぞれの問題を理論よりは、物語内容・物語言説・語り、の区分と、それぞれの相互作用、物語的効果の可能性について示した、という点が本書の基本価値であると思われる。
さらには、『失われた時を求めて』を読むための理論、という側面もある。実際、『失われた時』論としても成立するものだし。
つまりは、物語言説・語りの観点から『失われた時』を読み解こうとした際の有効な対象領域として、時間、叙法、態、を挙げているので、他の作品を読む時は自分で必要な理論継ぎ足しながら読めや、という話と思っておいた方がいいのではないか。
以下、読んでて面白かった点。
語りの水準
「態」の章、「語りの水準」関連の「転説法」の節、p276。
いわゆるメタフィクションの話で、転説法は、語りの水準(レベル)を侵犯するような語りのことである。語り手が内容を操作するような発言をするとか。
以下、引用。
そこから、以下のようにボルヘスがまことに正当にも表明した懸念が生じることになる ーー「こうした類の工夫が暗示するのは、もしかりにある虚構作品の作中人物たちが読み手ないしは観客でありうるとするならば、彼らの読み手ないしは観客であるわれわれの方も虚構の作中人物でありうる、ということだ」。転説法においてもっとも衝撃的に思われる点は、受け容れ難くはあるがなかなかに根強い以下の仮定の中にある。すなわち、物語世界外はおそらく、つねにすでに物語世界なのであり、語り手とその聴き手たちーーつまりわれわれーーは多分、やはり何らかの物語言説に属している、という仮定である。
この手の、現実との混同を呼び起こす機能は、語りの騙りたる所以といったところか。
先説法、物語言説の力
「態」の章、p285。
メタ物語=物語内で語られる物語、についての話だが、先説法との絡みで、予言的な用い方について述べている。(ちなみに、本書で「メタ物語」と言う時は、一般的な「メタ」の方向と逆になっている)
以下、引用。
結局のところ、忘れてならないのは、誰しも欲望するだけにとどめておくーーと言われているーーことをオイディプスが実行しえたのは、いつの日かオイディプスは父親を殺し母親と結婚するであろうと、神託があらかじめ語ったからである、ということだ。事実、そのような神託さえなければ、オイディプスが追放されることも、ゆえに父親殺しも近親相姦も、なかったはずなのである。オイディプスは王になるという神託は、とりもなおさず未来形で語られたメタ物語世界の物語言説なのであり、それがただ一度だけ言表されることによって、その神託を成就せしめうる「時限爆弾」は始動することになるのである。実現するのは予言ではない。それは、物語言説の形をした罠、しかも「効果抜群の」罠である。たしかに、物語言説の力(そして策略)とはこういうものなのだ。物語言説は、人を生かしめることもあれば(シャハラザードの場合)、人をあやめることもある(オイディプスの場合)。そして、このスワンの物語られた恋が<運命>の用いる手段であることを理解しない限り、<スワンの恋>を正しく判断することはできないのである。
予言=物語がそこに在るということが、「現実」の出来事に影響する、ということ。行為としての語りという観点からは外せないポイントか。予言が真か偽か、に関わらず、予言する/されるという行為自体の意味を問うものと言える。
以下、関連して思い浮かべた作品について。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』
- 作者: 桜庭一樹,むー
- 出版社/メーカー: 富士見書房
- 発売日: 2004/11
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 847回
- この商品を含むブログ (501件) を見る
手元に現物がないので、うろ覚えの記憶によるが。
確か、冒頭で、「藻屑は死んだ」というように、結末がポンと示されて、後は、その決定された結末に向かって語りが進められていく、という構成だったと思う。
言うなれば、予言的な先説法というわけだが。小説のようにインタラクティブ性のないメディアでは、読者はそのテクストを書き換えることができない。言わば、書かれていることは決定されたこと、運命である。
本作では、読者は「少女の死」という変えられない結末を知った上で、そこに向かって読み進めなければならない。この読者にもたらされる読書体験は、作中の主人公・なぎさの境遇と重なる。つまり、何もできない、何も変えられない少女の境遇と。変えられない運命に向かって進むという、読者と主人公の共通体験の連関性こそが、本作のメディア作品としての完成度を高めた要因ではないか。
…とまあ、予言とその成就、というパターンはよく見られるよなと。
『STEINS;GATE』
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2011/06/23
- メディア: Video Game
- 購入: 13人 クリック: 391回
- この商品を含むブログ (110件) を見る
シュタゲ、というか、いわゆるループものに関して。
特に、叙法でのディエゲーシス/ミメーシスの話や、語りの水準の話に関わってくるが、物語においては、語りの構造が多重化する。「物語を読んでいる作中人物についての物語」とか。語るという行為自体が、語られる対象にもなりうる、というこの再帰性が、メタフィクションやら何やらの生まれる源泉になる。
では、小説以外のメディアではどうか、と言った時に、インタラクティブ要素を持ったノベルゲームにおいて、選択する&読みなおす、という行為を再帰的に配置することで組み上げたのが、いわゆるループものと言えるのではないか。
あんま数はやってないので、代表作としてシュタインズ・ゲートを挙げるが。
主人公の岡部が、物語世界内のガジェットであるタイムマシンを使うことで、物語世界外のプレイヤーの行う選択&読みなおしを並行的に実行する。或いは、プレイヤーは、ゲームフォーマット上の(物語世界外の)要請である選択&読みなおしを、岡部として、物語世界内の操作として実施する。
焦点化対象、及び、語り手が共に岡部になっており、読者と岡部が近い位置にあるため、本作では行為の再帰構造は、物語世界内と物語世界外の近接・共感の機能として働くことになる。
同時に、読者にとっての「現実」世界も、選択されたもの、であるという認識を暗示する。
まとめ
物語に関わる以上、必然的に意識せざるを得なくなってくる話について、過不足なく綺麗にまとめてくれた本、という感じ。昔の自分に読ませておきたかった、という気もするが、あまり昔だと読み切れなかったのでは、という気もする。近い所まで把握できたところで読むのがベストと思われる。
物語内容・物語言説・語り、という区分は本書の基礎を為す所だが、では、物語内容とは何か?、という所にも踏み込んでいけると思う。物語言説・語りという外堀を埋めつつ、物語内容に斬り込む、と。
ある程度踏み込めば、本作の区分が消える地点があり、表現とは何か、表現するとはどういうことか、みたいな所に入ってくるのではないか。