物語論をゲームに適用するために その1

ジュネットが『物語のディスクール』で提示した物語に関する理論を、インタラクティブメディアたるゲーム(デジタルゲーム)に適用することを考える。
何回かかかると思うが、今できる分まで。


以下をポイントとして挙げる。
・物語とは何か。物語内容とは何か。
・語りの機能は何か。
・聴きの機能は何か。
インタラクティブメディアにおける語り手/聴き手。


物語とは何か。物語内容とは何か。

第一点。
これは『物語のディスクール』で触れられなかった領域であるが、非言語メディアによる物語の可能性を考える場合には避けられない点であろう。


関連する範囲の話を、以前にtogetterにまとめた。
doitakaのストーリー、語りの話 - Togetter
ここでは、「語り」「ストーリー」という語を使って、「物語」という語は避けた。
現在も基本的な認識はこれと変わっていなくて、最小の要素として「連続体」を想定するところから始めたい。


現実の、事象としての連続体(第一次の連続体)。これがまず基本になる。
連続体のバリエーションは、時間的連続、空間的連続、認識的連続、くらいになると思われる。
連続体の認識上の集合として「つながり」を想定する。この時点では、観測者の認識内の話である。
この認識されたものを、観測者が、あるメディアにより、一つの連続体(第二次の連続体)として再表出する行為が、語りである。
語られたものは、それ自体が現象として存在し、聴き手によって連続体として観測される。端的に言えば、音声=時間的連続体、文字=空間的連続体、となる。
聴き手は、語られた連続体を、「聴く」ことで、連想的に、像を組み上げる。その像が、語り手の認識内の、ひとつながりの連続体と一致するかどうかは不定である。(通常は一致しないはず)


以上が、語り〜聴きについての自分の基本的な理解である。


では、この観点からして、物語内容とは何か。
まず、物語内容は、事実である必要はない。ただ、語られた連続体(=物語言説)の存在のみが確実なことである。本質的に、語りは虚構であると言える。それが事実と一致することがあるように見えるのは、聴き手がたまたまそう思い込んでいるだけ、とも言える。
そういえば、になるが、『物語の詩学』の序では、

物語行為は物語内容とその物語言説とを同時に創り出す(案出する)のであり、それゆえに物語内容と物語言説は、いかなる意味でも分離不可能であるのだ。しかしながら、かつて一度でも、純粋な虚構というものが存在したことがあるだろうか? そして、純粋な非虚構というものが存在したことがあるだろうか?

と述べられている。
自分の理解としては、物語内容は、物語言説の観測によって聴き手に喚起された/される像の、最大公約数的な部分、である。語り手と聴き手は、完全に同じ像を共有することはできない。聴き手と別の聞き手も、また同じである。


では、物語とは何だろうか。なぜ、物語とあえて一つの語をつけて呼ばれるのか。
それに価値があるから、それが理解できるから、それが聴き手の中に一つの像を結ぶものだから、ではないか。
ランダムな文字の羅列があると仮定して、もちろんこれも、文字の連続体であることは明らかである。だが、これはおそらく大多数の人にとっては、認識上の像を結ばない連続体である。
特定のルールによる聴き取り(読み取り)行為によって像を結ぶかどうか、まずはこの条件で、連続体を区別することができる。
ただ、この条件では、要するに「理解可能な文章は物語である」と言っているに等しい。
もう一つ条件を加えるならば、「そこにあるはずがない像が結ばれる」かどうか、が、物語を物語と呼ばせるに足る、価値の源泉に当たるのではないか。
それは、虚構であること、とは異なる。例えば、過去に起こった出来事など、本来ならば(語られなければ)認識し得なかったはずの出来事を知ることができる、ということの奇跡性、魔術性である(もちろん、語りの本質は虚構ではあるわけだが、聴き手の認識として)。
物語言説・語りの機能・手法は、語られる物語内容の像を、ある時は歪め、ある時は組み換え、そしてある時は強くはっきりと結ばせる。ないはずのものが見える、だが目で見るどんなものよりも強く見える、これが物語のある極の姿である。


抽象的な方向から物語の話になった。しかしこれも相当広義な定義と思われる。
「ないはずがないものが見える」という意味では、TVもTVゲームも十分に物語的である。実際、芸能人が知り合いであるかのような感覚や、TVゲームでキャラクターを動かす時の感覚は、物語的=魔術的と言っていいのではないか。
現在での語の正確な定義として妥当か、というと、どうか。


で、この辺の話は前座として、ではこの物語的効果をもたらすに至る、語りの機能、聴きの機能、を考えたい。多分明日以降に。
語ること、聴くこと、を見なおしてから、インタラクティブメディアを考える。