戦国コレクション8話 秀吉回つづき

何度か見直したので再考してみる。


特に、飛ばしたところ。
・ 朝食を食べる米の独白。
・ タニシ、ドジョウ、カエルによる劇中劇。
・ カカシとの会話。
・ 利休との会話。

そもそもの問題点


秀吉のひょうひょうとしたキャラで覆われてはいるものの、本作はシリアスなキーワードが多数登場する。
死、滅び、哀しみ、贖罪、救世主。


本作における異界が、秀吉の夢の世界ということであれば、これらのキーワードと秀吉との接点を見つけることができるのではないか。そうすることで見えてくるものがあるのではないか。


タニシ、ドジョウ、カエルによる劇中劇


一番やっかいなところだが、これをまず見る。

(カメラ:俯瞰)
(カメラ:タニシ)
タニシ :食事が必要です。
(カメラ:ドジョウ)
ドジョウ:いずれ見つかるでしょう。
(笑い声)
(カメラ:俯瞰)
(カエル登場、拍手)
カエル :過去が未来に含まれていなければ贖罪そのものに意味がない。
(カメラ:タニシ & カエル背中)
タニシ :そういうことではないです。
(笑い声)
(カメラ:ドジョウ & カエルアップ)
ドジョウ:見張っている瞳がある限りここは煉獄ではありえません。
カエル :瞳がなければ我等は着ぐるみに過ぎないでしょう。
(カメラ:タニシ & カエル背中)
タニシ :着ぐるみが着たいです。瞳は期待できません。
(笑い声)
(カメラ:舞台奥床から客席、全員IN)
ドジョウ:ではどうやって贖罪のために祈ればいいのでしょう。
カエル :何もないことのために祈ることはできます。虚空に祈りは消えていきますが。
タニシ :それでは祈る手は誰の手なのでしょう。
(カメラ:ドジョウ)
ドジョウ:少なくとも君には手がないよ。
(カメラ:タニシ & カエル背中)
(笑い声)

全員着ぐるみの上に、内容がこれなので、初見では、どれが誰のセリフかの対応を把握するのも困難だったが、声、カット、内容からして、上記対応と思われる。


3人のキャラクターは以下となっている。
 タニシ:話の発端。難しい理屈は言わない。笑われ役?
 ドジョウ:タニシの話し相手。ツッコミ?
 カエル:闖入者。難しい理屈を言う役。


あらすじ的に言い直せば、こうなる。
「食事が必要」なタニシの所に、カエルがやって来て「贖罪」について伝えた。
場における主人公はタニシ、この場での伝達者はカエル、場をかき乱すのはドジョウ、という役回りと言える。
タニシとカエルの間の、意図的な誤読(食事→食材=贖罪)。これは、米、食事、という本作のモチーフを贖罪につなげるキーとなる。


3人の姿はどうか、
 タニシ:殻に入っている。ほぼ殻しか映らない。顔がない。手がない。
 ドジョウ:顔、眼がある。一応胸ビレがある。
 カエル:顔、眼がある。手足がある。棒で支えられている(刺さっている)。


印象的なのは、タニシを映すカメラである。
画面左側に大きく殻が映るタニシに対して、カエルは背中を向けている。
一方で、ドジョウとカエルが映るカットでは、カエルの顔が画面右に大きく映り、左奥にドジョウの顔が映る形になる。
この時、4つの瞳が画面を見る形になり、この絵と合わせて「見張っている瞳がある限り〜」というセリフが語られる。見張っている瞳とは誰の瞳か、箱を覗きこむ秀吉のものかもしれないし、ドジョウとカエルの瞳なのかもしれない。タニシには眼がない。「瞳は期待できない」、そして、「着ぐるみが着たい」。
タニシは、ここで、ドジョウ・カエルとは異質である。


「贖罪のための祈り」についての問答。
「何もないことのための祈り」「祈りは消えていく」「君には手がない」は、タニシにとっての贖罪の不可能性を示すようである。
ドジョウの「君には手がない」の後、カメラが切り替わって、背中合わせのタニシとカエルを映してから、観客の笑い声が入る。


総じて見れば、食事=贖罪が必要なタニシに対して、その不可能性をつきつける寸劇と取れるのではないか。
タニシの罪とは何か。
贖罪は不可能、だが、見張っている瞳はある。
「過去が未来に含まれていなければ贖罪そのものに意味がない」
戦国世界から現代に来た戦国武将は、過去と未来の断絶の際にいるのではないか。
あるいは、天下人への転生は、過去と未来を断絶させるものではないか。


3人の問答という形のこの劇中劇のシーンは、この後に続く、秀吉、信長、利休の問答を連想させる。
タニシ、ドジョウ、カエルの声優が誰か、という点から対応を探る手はあるかもしれないが、EDには記載されていなかった…。


カカシとの会話

劇中劇後の会話である。

秀吉 :ねぇ、これは何なの。
カカシ:何なのと聞かれましても、お芝居ですからねぇ。
秀吉 :お芝居ってわからなくちゃいけないものじゃないの。
カカシ:わからないなりにわからないお芝居というのはあるものでして。
    わからないお芝居には2種類あります。
    わからないように書かれているもの。
    内容がないもの。
秀吉 :じゃあ、これはどっち?
カカシ:内容があるお芝居なんてありませんよ。
秀吉 :わからないこと言わないでよぉ。
カカシ:現実がお芝居でできてるんです。内容があってたまるものですか。
    そしてそのことを悲しんで泣いている人がいる。
    ここではその悲しみを癒さなければ救世主とは言えません。
秀吉 :救世主?
カカシ:そうです。救世主です。
    ここでは泣いている人を慰めることだけが救いなのです。
秀吉 :そしたらどうなるの。
カカシ:少なくとも救世主とは呼ばれます。


まずは、納得がいくようでいかない、2種類の「わからないお芝居」の区分。
カカシは2種類を提示してと思えば、すぐに「内容があるお芝居なんてありません」と言う。
「全てのお芝居には内容がない」を真とすれば、「全てのお芝居はわからないお芝居である」ということになる。となると、最初のカカシの説明はこうなる。


お芝居には2種類あります。
わからないように書かれているもの。
それ以外。


人を喰ったやり取りであり、ひとつひとつの発言の整合性を詳細に見ても仕方がないのかもしれない。だが、発話されたこと、語感による印象は発生する。
ここでは、あの劇中劇=わからないお芝居、への対し方について2つのキーワードが与えられた。それらはどちらか一方だけが真なのか、両方とも真なのか、どちらも真でないのか、は不明である。だが、どちらが真であるかを明言されていないのであれば、どちらもが真でありうる、という見方をすべきであろう。
「内容がない」ことはお芝居一般の問題であるかのように言及された。そして「わからないように書かれ」ることは宙に浮いたまま言及されずに終わる。
「わからないように書かれ」たことが仮に真だとして、そう書いたのは誰か?わからないように書きたいのは誰か?


これは秀吉の夢である。秀吉の夢が、夢の中の秀吉に見せるお芝居。
夢を見る秀吉が、夢の中の秀吉にわからせたくないこと。
お芝居の題材は贖罪である。
手がないタニシによる贖罪の不可能性。
識閾上の自我が向き合えない現実、とは見れないか。


では、泣いている人とは誰か?
現実とは何を指すのか?




朝食を食べる米の独白


秀吉が穴に落ちた直後に、唐突に登場する米の独白シーンである。
独白の内容は以下。

あぁ、いい朝だ。
でも朝ご飯を食べなければ生きていけないんだ。生き物は全て。
いや朝でなくてもいいけど。ともかくご飯が必要なんだ。
(ご飯を食べる)
あぁ、泣ける。
この涙はなんだろう。感謝か悲しみか。
ともかく僕は、白米を食べる。

いきなり出てきたわけで、初見では驚くばかりだが、このシーンによって与えられる印象は、米を食べることに対する罪の意識である。
米を食べることは罪であり、贖罪の必要性が示唆される。
食卓にあるのは、"焼かれた"魚で、魚の"瞳"は食べる米を"見つめて"いる。
そして朝食を食べる米は"泣いている"。


一連の異界行において、結局米を食べたのは、秀吉とこの冒頭の米だけである。
秀吉の異界行は、秀吉が炊き上がった米を口につけるところで終わる。
米に口をつけるまではよい。
米を食べた後にはどうなるか?
それこそ、冒頭に提示された米による罪を犯すことへの悲しみの独白ではないか。


では、カカシが言う「泣いている人」とは?
異界の中で泣いていたのは、この米だけである。
では、これは、米を食う者=秀吉の流す涙ではないか。



利休との会話

カカシとの会話の後、砂漠に現れた利休との会話。
ここでの利休は、生と死の境界に立ち、その理を体現する役柄となっている。


利休の問い、
「例えば、答えると死ぬような問があったとしてあなたは答えますか」
秀吉の答え、
「答えると死ぬようなことでも必要があったなら質問するし、答えるんじゃないかなぁ」
利休の返し、
「そういう覚悟ならいいでしょう」
この後で利休は、
「例えば最初の扉などすぐに帰ろうとしていたなら死んでいたに違いありませんし、質問に答えられなくても死んだでしょう」
と述べている。
利休の役柄は、つまりは審判者である。
秀吉に不可解な物事を見せる、この一連の異界行のシステムの一部とも言える。


この問答の後のやりとり。

利休:しかし、生死とは何もない反復運動に過ぎないとすれば、
   帰る場所などないことだけが真実になります。
   片方が死で、それならばもう片方は何でしょう。
秀吉:そんなこと聞かれても、意味なんかないよ。
利休:そうです。無意味こそが正解です。
   それなら言葉は意味を持ちうるのでしょうか。
秀吉:知らないよ。
利休:そうです。答えられないというのが正解です。
   少なくとも無意味に意味があると信じて発話だけは続けなければならない。
信長:何もないなどと言っている奴のことが信じられるわけないでしょう。
利休:それはそうです。しかし確かなことが欲しい。
   なら一つだけあります。それは麦との戦争です。


果たして利休と秀吉の問答は成立しているのだろうか?
利休は意図的に秀吉の発言を誤読しているかのように見える。
利休は誤読を通じて秀吉に要請する、「無意味に意味があると信じて発話だけは続け」ることを。


ここで言及される「発話」は、劇中劇における「何もないことのために祈ること」に通じる。
現実世界の史実において、秀吉によって切腹させられた利休が、秀吉に贖罪の祈りを要求しているかのように見える。


場面はこの後、麦との戦争に移る。
戦車と刀で麦と戦う利休、信長。対して秀吉は、それまでのひょうひょうとした態度から一転、怯えて背中を向けて走って逃げ出す。
米と麦の戦争と来て、連想されるのは史実の方の秀吉の朝鮮出兵である。
贖罪の対象、向き合わねばならない過去として、これほど端的なものもないだろう。
秀吉はそこから逃げ出す、戦争の結末は語られない。
そして舞台は移り、秀吉が「お米の神様」になるシーンが描かれる。

まとめ、および、構成について

以上、8話について見送っていた箇所について再考してみた。


各々のパートが明確につながっているわけではないが、明らかに語られているキーは以下である。
・ 食事→贖罪
・ 贖罪の不可能性、無意味。しかし、続けられなければならないこと。


ここで言われる贖罪が、あらゆる生き物にとってのものなのか、現実世界の史実における「罪」を引き継いだ秀吉にとってのものなのか、は断定し難い。だが、史実の秀吉を連想させる要素は含まれている。


上記から、この一連の異界行は、秀吉が「お米の神様」になる出世物語的な予知夢、と、秀吉に過去の行状に対する贖罪を促す悪夢、の二面性を持つと見れる。

過去が未来に含まれていなければ贖罪そのものに意味がない。

うーむ。
それを言うなら戦国武将を少女に転生させて現世に置いている本作もまた…。