「アンチクライスト」 森の女たち

アンチクライスト [DVD]

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参考になるレビューはここらかと思われる。


・アマゾン、三本の木氏。
http://www.amazon.co.jp/review/RKKMGEXUGX28/

・みちとの遭遇〜ほとんど映画日記〜
http://ricochan7.blog87.fc2.com/blog-entry-1060.html



三本の木氏のレビューが的確にポイントを付いている。
あらすじ等省略。

アンチクライスト」とは何か?

ご丁寧に、女性マーク(♀)がタイトル"ANTICHRIST"の最後のTに使われている。
まずは、女性≒原始宗教的なもの≒作中で言う"NATURE"≒アンチクライスト≒悪魔(SATAN)、という見立てになる。


もう一つの宗教的な見立ては「エデン」と呼ばれる山荘である。
エデンに夫婦が二人、という舞台設定は、アダムとイブを連想させる。
ラストシーンでは夫が急に木の実を食べだすが、これは知恵の木の実を連想させる。


子供を失ったことが何らかの罰であった、とか、二人の性行為が宗教的な罪であった、という見方は、題材のインパクト的にはやりたくはなるが、あまり本筋とは関係なさそう。


始まりは子供の死だが、その後のストーリー展開は、
・ 夫側 : キリスト的。理性的。科学的。父権的。明示されたもの。
・ 妻側 : アンチキリスト的。感情的。自然。秘匿されたもの。底流。
という対立が徐々に明確化してゆく、という形になっている。


セラピーの過程

セラピストは、家族を診察してはいけない。
だが、夫は「妻を誰よりも理解しているから」という言ってそれを行おうとする。
その結果はどうだったか?
この後一貫して描かれたのは、夫がいかに妻を(そのNATUREを)理解できていなかったか、である。


セラピーは、妻の内面・潜在意識を明示化する方向で進められる。
「恐ろしいものは何か」という問いから、夫は妻の恐怖の根源を暴こうとする。


エデンでのセラピーは、傷ついた妻の治療と、妻の研究の題材「女性に対する虐待の歴史」のイメージが重ねあわされるようにして進められる。夫婦の対話は、人間の、女の「本質(NATURE)」にまで及ぶようになる。


夫が幻視させようとした妻のNATUREは、そのまま夫婦それぞれに振りかかる。


破綻

妻が夫に直接暴力を振るった引き金となったのは、子供に靴を逆に履かせていたこと、に夫が気付いたことである。
なぜ靴を逆に履かせたか、それは作中では明示されない。だが、妻はその発覚を恐れた。それは暴かれてはならない秘密だった、と。


子供が死んだ原因は何か? あれは事故である。靴を逆に履かせたことも、事件の折に夫婦が性行為をしていたことも、直接は関係ない。
だが、妻は、妻のNATUREは、それらを結びつけた。
だから、靴を逆に履かせたことを夫に知られてはならない、知られたら罪を問われて捨てられる。
だから、夫の性器は、妻の性器は傷つけられなければならない。


アンチキリストの論理、NATUREの論理は、妻に、夫に償いを求める。
三博士を連想させる「三人の乞食」。
キリストの生誕に立ち会った三博士とは逆に、三人の乞食が集まることで人が死ぬ。論理の反転した世界。
悲嘆、苦悩、絶望を経て、妻のアンチキリストの論理は、贖罪としての自死を要求する。


だが、原始宗教の世界は、妻ではなく夫に、三人の乞食の顕現としての鹿、狐、烏を幻視させた。
烏は、その鳴き声によって、夫が足枷を外すためのスパナの位置を知らせた。
三人の乞食は誰の死のために集まったのか。妻ではないか。
森のNATUREは、妻に贖罪としての死をもたらした。夫の手を通じて。
子供が死んだ時から、森の論理は、妻に死を選ばせようとしていたのではないか。そして死んだ妻は、あの森の木から生えた無数の手の中に還っていった、と。

ラストシーン:森の女たち

本作は、ある種「女性の邪悪さ」を描いたものと言えなくはない。
だが、その女性に対して、男性にできたことは何か?
絞殺して火葬にすること。魔女を火あぶりにしたように。


妻が火にかけられた次のカット、火が照らす中、エデンを降りる夫の姿が遠景で描かれる。
ここで、象徴的に、画面を埋め尽くすほどの横たわる裸の女たちが画面上に浮かび上がってくる。
森は女たちの死体で満たされている。


夫=男性=キリスト教は女性=NATUREを受け入れられず、暴力で支配することしかできなかった。
森の知恵の木の実を食べた夫が幻視するのは、それでも森に向かう、無数の無貌の女たちである。
男たちによる支配などは所詮は上辺だけのものだったのではないか。


セラピストとして、良き夫としての「楽園」の人生は、エデンでの体験を経て、永遠に失われた。
得られたのは、理性の及ばぬ世界がある、という自らの無力を知らしめる知識である。