「ルナシー」 悪夢とその実現

ヤン・シュヴァンクマイエル「ルナシー」 [DVD]

ヤン・シュヴァンクマイエル「ルナシー」 [DVD]


タイトルの LUNACY は精神病だか狂気だかという意味だそうで。


端的にまとめれば、拘束衣をつけられる悪夢に怯えていた青年が、色々あって最後に本当に拘束衣をつけられて精神病院に収容されるお話。
予知夢が現実になる、という系統の話である。


一般的な基準で言えばバッドエンドなのかもしれない。
ただ、「自分は精神病で病院に入れられるかもしれない」という漠然とした不安に苛まれるより、精神病院に入れられてしまった方が楽、と、そうも言えるかもしれない。
自分が恐れているものを、映像という確かな形を持ったものに落とし込んだ、そして映像作品として外側から見た、という、一種のセラピー的な作品と言えようか。


監督が作品冒頭で、「この作品に芸術性を期待されるのは間違いです」「芸術は死に自己満足で広告的な物だけが残りました」と直々に述べている。
確かにまるで救いのない、極めて個人的な作品に見える。あるいは、むしろ、そう名言することで、その背後の何かの存在に注意を向けさせようとしているのかもしれない。

主人公

どこかの部屋で、主人公が夜にノックの音で眼を覚ますところから作品は始まる。
拘束具を持った男たちに捕らえられそうになり、必死でこれに抵抗する。
一つの端的な、普遍的な不安・恐怖の提示。
主人公は「不安を抱えた青年」というロールとなる。


結局、これが夢であったということが提示され、同じ建物で寝ていた人々によって主人公は目を覚まさせられる。
特に、主人公にビンタをした赤いガウンを着た男は、「正常であること」「自制的であること」の象徴であるかのように印象づけられる。


後に明かされるが、母が精神病院に入っていたことで、自分もそうなるのでは、という不安を抱えるというのは……どっかで聞いた話である。というか芥川龍之介そのまんま……。

侯爵

翌朝、舞台は集団食堂に移り、ここがホテルのような宿泊施設であったと分かる。
昨夜の赤いガウンの男「侯爵」は、時代錯誤のような貴族然とした風貌。昨夜とは変わって、一般的な「正常」とは異なる個性的な人物として描かれる。
ここから、侯爵は主人公の導き手として、ストーリーを展開させる。


主人公は侯爵の城に招かれ、そこで夜に涜神的な儀式を目にする。
侯爵による神への恨みの言葉、乱れた性行為。
後にキーパーソンになるシャルロットも、「無理矢理」儀式に参加させられる少女としてここに登場する。
翌朝、主人公が侯爵の冒涜行為を避難すると、侯爵はそこで、自然・宗教・善悪についての講釈を垂れる。展開されるのは、キリスト教的な神の概念、善悪への反抗である。一神教以前の原始宗教的善悪観と言えるかもしれない。


演説を終えた侯爵は、急に苦しみだす。この後、「早すぎた埋葬」的一連のシーケンスが展開。
埋葬した侯爵が翌朝復活する、という茶番劇に主人公が参加させられる。
そして、その理由として、侯爵の母の「早すぎた埋葬」事件、侯爵に表れる強硬症、母への同一化願望、が語られる。
ここに来て、主人公と侯爵の類似性が明らかになる。


侯爵のキャラクターは、常識にとらわれない、良識を馬鹿にしたような言動、そしてその哄笑、に代表される。
主人公から見れば、自分をすべて見透かされているかのような存在である。
「早すぎた埋葬」のシーケンスからは、主人公は侯爵の過去の姿、侯爵は主人公の未来の姿、という対応関係が示唆される。侯爵は、非常識な言動ながら、「異常な」自分を十全にコントロールしている。異常行為によって「異常な」自分を制御し、「正常な」生活をおくっている、というように。「正常な」思考をしているが、「異常な」自分をコントロールできず、結果として異常行為を行なってしまう主人公とは対比的である。
侯爵の「異常さ」は主人公にとって救いとなり得るものだった、この時点ではそう見える。


シャルロットと地下室の男たち

「早すぎた埋葬」シーケンスを経て、舞台は精神病院へと移る。
ここも侯爵と同じく、異常行為によって「異常」を制御しようとする病院である。病院内は患者が自由に動き回り、内部は鳥の羽が飛び回る異常な空間となっている。


ここで、キーパーソンとなる若い娘、シャルロットが登場する。
シャルロットは、主人公の内なる願望に応えるかのような、「正常さ」を備えた美しい女性として映る。
主人公の目に映る「正常さ」に対して、侯爵は「シャルロットは色情狂だ」と言う。シャルロットを信じるか、侯爵を信じるか、が主人公の選択となる。
選択に悩む主人公を、シャルロットは地下牢に案内。地下牢には、侯爵に幽閉されたという本当の院長たちが居る。ただし、彼等は全身の鳥の羽をつけて無言で食料を漁る、「何か恐ろしいもの」として描かれる。
シャルロットの望む「正常」は、彼等、地下室の男たちの解放である。


続く、「民衆を導く自由の女神」の絵の再現の場面。
これを前にして「自由バンザイ!」と皆が叫ぶ。
侯爵の支配する病院における「自由」。これは、地下室の男たちから勝ち取ったものである、と取れる。そしてそれは、彼等の復活によって失われるものである、とも。


絵の再現シーン、女神の役のシャルロットに、興奮した男が襲いかかる。これは「自由」ゆえに認められるべき行為ではないか。しかし、主人公はこの男からシャルロットを救い出し、続いて侯爵たちに「シャルロットは僕の婚約者だ」と宣言する。
侯爵の「自由」な世界において、世俗的な婚約という概念を、「彼女は僕のものだ」という個人的なルールを持ち込む主人公。この後に起こる、楽園の崩壊が、主人公の「個」「自我」によってなされると見れば興味深い。
侯爵はただ、哄笑するのみである。

暴力の世界

侯爵たちの不在の隙に、主人公は鍵を見つけ出し、地下室の男たち、元院長たちを解放する。
そこからは、「正常な」ルールに従い、鳥の羽に覆われた黒い男たちが、「自由な」患者たちを暴力で統制する世界へと病院が様変わりしてゆく。


元院長による病院の秩序回復。侯爵は、病院の患者として拘束衣を着せられて登場し、元院長によって"第13療法"を施術される。あれほど破天荒で支配的だった侯爵が、ただ一人の患者として叫びながら手術室に運ばれる様は無残である。
(そしてまた、侯爵の従者の舌を切り取ったのも元院長であったと明らかになる)


侯爵の支配が終われば、元院長の支配が始まる。シャルロットは結局自分のものにならず、元院長の情婦に収まる。
主人公はまた悪夢にうなされるが、赤いガウンを着て主人公をビンタで起こしたのは、侯爵でなく元院長である。そして、元院長の「暴力」は、主人公をただ一人の精神病患者として入院させる対応をするのみである。
ここで本作品は終幕を迎える。


「自由」の世界と「暴力」の世界

後半の、病院の支配が侯爵から元院長へと移る様は、本作冒頭で監督が解説した通りの展開である。
曰く、

この映画の主題は精神病院とそれを管理する者への観念的な挑戦です。
彼らのやり方というのは極端にわけて2つ、
1つは患者たちに完全な自由を与える方法、
もう1つはご存じの通り監視と体罰を繰り返すという保守的なやり方です。
しかし実はもう1つ方法があります。
先の2つの短所を組み合わせ膨らませた原理、それが使われる場所こそ狂気に満ちたこの世なのです。


主人公は、最初から最後まで変わらなかった。ただ、狂気を恐れ、悪夢に苛まれる哀れな青年でしかなかった。彼が「異常かもしれない自分」を制御し得た可能性の一つが、侯爵であったと言ってよい。

侯爵曰く、「恐怖の原因は"未知"だ。つまり未知をなくせば恐怖は克服できる」。
一見破天荒に見える侯爵の振る舞いだが、世俗的な禁忌の概念を無視し、知りたいことを知る、神をも恐れずやりたいことをやる、という実利主義とも言えよう。


対して主人公はどうであったか。彼を支配したのは、シャルロット、そして彼自身が作った彼女の虚像である。
結局、侯爵はシャルロットの本質を理解しており、彼女の狂気をもコントロールしていた。だが主人公は彼女の本質に迫り切れず、「婚約者」という世俗的概念を通して、彼女の虚像を作り上げた。そして、シャルロット自身の狂気は、主人公の虚像を喜んで受け入れた。


主人公の限界は、自分が狂気であることへの恐怖は持てても、シャルロットが狂気であることに思い至れない点である。侯爵のような分かりやすい狂気には逆に振り回される。そして、「正常な」元院長の狂気には、自分が被害者になるその時まで思い至れない、と。


主人公が夢想した「正常な」世界は、取りも直さず、主人公を狂人として幽閉する檻の世界であった。だが、それを主人公の失敗と言えるだろうか。主人公は結局、侯爵の「自由」には耐え切れなかったのだ。
我々は狂人である以前に愚者なのだ。


舌と肉、鶏と羽

本作で目を引くのは、合間合間に挟まれる、舌やら肉やらが動く寸劇である。
言うなれば、グロアニメであるわけだが……。
言葉による語りが行われる世界、人が意志を持った存在として描かれる世界、との対比として、言葉のない世界、物質の世界が提示されていると見れば示唆的である。


特に舌は、作中の、舌を切り取られた人物である侯爵の従者と関連させてみると意味ありげかもしれない。
言葉のない世界での感覚器としての舌。
中には、二本の舌同士が性交をするような寸劇もあった。これらの舌は何の味を感じ取っているのか。


もう一つ、印象的に使われたのは、主に精神病院内で使われた鶏と羽である。
鶏は病院内に放置されているようで随所に出てきたが、舌と肉の寸劇にも登場し、ミンチになった肉をついばんだりしていた。イメージとしては、食欲しか持たない即物的な存在で、病院内の患者と重ねられていたようにも見える。


羽は、病院内に振りまかれ、雪のように降り積もっていた様が印象的である。
自由さ、純粋さ、といったイメージか。
一方で、全身にタールを塗った上で羽を纏っていたのが、暴力の象徴たる地下室の男たちなわけで……。
なかなか難しいところ。


まとめ

あんまりすっきりする映画では……ない。
だが、それがいい、のかな?


ドグラ・マグラ的、というのは確かにそうで、類似点が多い。
しかし、ドグラ・マグラの、あの救いの無い円環構造とはまたちょっと違うか。


まあ、一言で言うなら、悪夢、であろう。