「スローターハウス5」 戦争を語る

映画版の方。

スローターハウス5 [DVD]

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記憶における物事の連続性は、時間によってではなく主観的な関連性によって決定される……みたいなことを念頭に置いて見る映画だなぁと。


本作は、主人公のビリー・ピルグリムの一人称的な視点から描かれる、彼の半生記のようなものである。主要な事件としては、第二次大戦中のドレスデン空爆を扱う。
そういう意味では本作は確かに戦争映画である。だが、そこにあるリアリズムは、その戦争を、終戦後本国に戻った彼が回想する形で描くことによって担保される。

戦争という題材、語ることのリアリティ

本作の主人公は、ほとんどコレといったアクションを行わない。そういう意味では、映画における「魅力的な主人公」とは到底言えない。
彼は語り部である。ただただ、戦争という状況に巻き込まれた自分を語る。ビリーの人生という一つの軸を通して、現代が過去を語る、そういう映画である(そして過去と未来を超越したある地点「トラルファマドール星」にたどり着く)。


作中でビリーは一度も銃を手に取らず、誰かを殺すこともない。
作品冒頭で彼は捕虜になり、後は捕虜として施設に入れられ、ドレスデンに移送される。
そして、ある日、ドレスデン空爆を受ける。
防空壕から出た彼等は、一面の焼け野原を目にする。


ここに劇的な事件は何もない。
主人公が密かにドレスデン空爆の情報を入手して人々を避難させようと頑張った、だとか、ドレスデンで知り合った現地の少女を失って哀しんだ、だとか、そんな劇的な展開は一切ない。
ドレスデン空爆で焼かれた。たまたまそこにいたアメリカ兵捕虜たちは生き延びた。それだけである。


空爆に至る前は、ドレスデンの街並みは丹念に映される。平和で美しい街並み、移動する米国兵捕虜にじゃれつく子供たち。はりきるドイツ人少年兵と、彼に笑いかける少女。
空爆の後、少年兵は絶叫し、誰かを探しに走り出し、火に包まれた建物に駆け入ろうとして止められる。
彼の絶望は劇的である。分かりやすい。
だがビリーは空爆を経て何を思ったのか? そこに分かりやすい言葉も行動もない。


ビリーとドレスデン空爆との関係は、現代における彼がそれを思い出す、そのシチュエーションにより導かれる。
空爆の前後の、作品のシーン構成は以下となっている。


(現代)ビリーの飛行機事故
(過去)ドレスデンへの移送
(現代)ビリーの妻の自動車事故、ビリーの手術
(過去)屠殺場での生活
(現代)手術後のビリー、歴史家との会話
(過去)ドレスデン空爆直前〜空爆
(現代)退院後、一人で家に戻るビリー
(過去)空爆後、焼け野原を目の当たりにする
(現代)長男との会話、トラルファマドール星への移動
(過去)空爆後の後片付け作業


ドレスデンでの体験は、現代のビリーの飛行機事故の体験の関連付けられて想起されている。
示唆的なのは、病院にいた歴史家の言葉であろう。歴史家は、ドレスデン空爆の死者数は連合軍の500万余の死者数に比べればものの数ではない、と言う。この場面で、ビリーと歴史家が論争を開始することもない。ビリーが歴史家を避難することもない。ただ、ビリーは映画の語り部としてドレスデンの街並みを思い出す。そして視聴者は、そのビリーの記憶を共有する。
ビリーに思想は無い。ただ、他人の思想を前にした時、自分が目にした現実を思い出す。それがビリーのリアリティ、この映画のリアリティである。


退院後、妻を失ったビリーは犬だけが待つ家に帰る。この空虚は、焼け野原となったドレスデンの空虚と重なる。


ビリーが出会う、もう一人の思想を持った人物は、軍に入った彼の息子である。
空虚な家で、無気力にベッドに横たわるビリーと息子との対面。
共産主義との戦いについて語る彼に、ビリーは何も言わない。
ただ、彼は、息子が去った後、トラルファマドール星に連れ去られる。


トラルファマドール星


トラルファマドール星に行った後の流れは以下となる。


(現代)トラルファマドール星にモンタナが来る
(過去)空爆後の後片付け、ダービーが銃殺される
(現代)トラルファマドール星でモンタナとイチャイチャする、
    トラルファマドール星についての講演、講演中にラザロに暗殺される
(過去)ドレスデン、ドイツ兵が引き上げた後の混乱
(現代)トラルファマドール星で、モンタナに子供が生まれる。
    トラルファマドール星人に祝福される。(終幕)


トラルファマドール星には現在も過去も未来もない。
四次元の世界には、主観的な時間があるだけである。
言わば、自由な語り部のための立脚点としての舞台装置。
空想的な恋人・伴侶のモンタナ。モンタナは生まれた子供の名を「ビリー」にする。
永遠の空間トラルファマドール星。人間の永遠性は、子孫を残すことによって実現される。トラルファマドール星で生まれた子供は、二重に意味づけされた象徴的な永遠、と言える。


虚飾めいた、トラルファマドール星人による子供への祝福。
トラルファマドール星では何もかもが空虚だ。
だから、ポルノ雑誌に出てくるような女優・モンタナが肉体をもって現れたりする。


ビリーは、語り部は、トラルファマドール星に行かなければならなかった。
歴史家の、息子の提示する、意味づけされた歴史・世界にはいられなかった。
歴史を語る「言葉」としての歴史に対しては、光景を、映像を、記憶をもって相対する。それがこの映画である。
だが、トラルファマドール星はビリー個人のものでしかない。他の誰かと共有できるものではない。連れていけたのは犬と、空想的な恋人だけである。


作家、あるいは、映画の作り手は、戦争についての意味付けや、思想を語ることはしていない。ただ、トラルファマドール星という全ての記憶を語れる装置を提示し、それを通してある事件を語るというやり方を提示したまでである。
人々が個々人のトラルファマドール星を持つ、それはコミュニケーションの限界を提示するものかもしれない。
あるいは、他人がその人のトラルファマドール星を持っているという発想は、コミュニケーションという幻想を抑制する機能を持ちうるのかもしれない。


本作は、戦争映画と言うよりは、戦争をどう語るかの映画と言うべきだろう。