サミュエル・ベケット『ワット』 その1 ワット=What?

ワット

ワット


読んだ。
ベケットは初。「ゴドーを待ちながら」も観たことはない。


手に取ったきっかけは、ジョージ・スタイナー『言語と沈黙』で触れられてたため。
本書では、現代において、科学の言葉の拡大により文学の言葉が縮小していったこと、及び、大戦における惨事の経験により言葉が信頼できないものになったこと、が基調として述べられている。
この流れで、ベケット論「陰影と細心」において、ベケットをこの時代の体現者として論じている。


まあ、そんなこんなで、現代における言語の問題に触れる作家として読んでみようと思った次第。
小説では、『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』が三部作とのことだが、先に、その前に書かれた『ワット』を読んでみた。発表は三部作の後になるが、執筆はこれより前になる。


ワット(What)とノット(Not)

本作、あらすじとしては、主人公のワットが、謎の人物ノット氏の家に使用人として入り、そこを出るまでの話、となる。
なんのこっちゃである。


本作は、リアリスティックな作品ではなく、空想的、思想的、象徴的と言える。
神話的と言うのが正しいかもしれない。帯の文句には、

語り得ないものを語ろうとする主人公ワットの精神の破綻を、複雜な語りの構造を用いて示した現代文学の奇策

とある。


語り得ないものとは何か。
作中での、対象としての「それ」は、ノット氏(及び、その家)である。
また、語り得ないのは何故か。
ワットには、語るべきものとそうでないものの区別がつかないから。


ワットはある意味で非常に人間的であるが、全く人間的でない、と言える。
ワットは結晶された概念で、人間のあり得る一つの極の姿である。
それ故に、神話的な、あのノット氏の家にたどり着くことができた。語り得ぬノット氏と、語れぬワットは、表裏一体の存在である。そして、ワットから聞いた話を手記に遺した、という語り手たるサムもその一端を担う。
(p.135 において、語り手は、ワットをノットと言い間違えている)


本作において、概念上の中心はノット氏である。
ノット氏の家には、いつも必ず二人の使用人が居る。使用人はトコロテン方式で、一人が入れば一人が出ていく、というルールになっている。ワットは使用人として家に入り、そして一人、また一人と使用人が来たことで、家を出る。
後に、この時の体験を、ワットは病院においてサムに話す。そして語られた話をサムが手記にまとめた、と、そういう体裁になっている。
作中で示されるサムの姿は、作者のベケットを連想させるという。順序としては、ベケット=サムが、ノット氏という語り得ぬ距離にある特殊な存在を、語るための言葉の射程に収めるために、ワットという中間的な語り部アバター)を創出した、と見れる。語り得ぬものに肉薄するには、常人の言葉の持ち主では役者不足なのだ。そして語り得ぬものに肉薄できるだけの語り部は、常人の言葉を保ち続けることはできないのだ、と。


翻訳者、高橋康也氏の解説には、

溲瓶が溲瓶でなくなるこの不可解な世界の住人、この世界の不可解性の根源であり<結び目>(knot)であるノット氏(Mr. Knott)、神そのもののごとく否定語(not-this とか not-that)によってしか定義できぬ超越者、燃える藪のなからエホバがモーゼに明かした自己規定のごとく「われはあるところのものなり」(I am that I am)という同義反復によってしか表わしえぬ唯一者 ー この語るべからざる存在ノット氏について語ろうとするとき、ワットはバベルの塔を築こうとしたものたちと同じく言語の混乱という罰にみまわれるのである。
(中略)
ともあれ、氏はワットの執拗な<What?>という問いに対する永遠の否定的返事<Not>であることは確かである。あるいは、問うものと問われるものを結びつけたときに生じる言語遊戯のとおり、ノット氏の正体についてワットの得る答えは<what-not>(どうでもお好きなもの)なのかもしれない。

とある。


ワット→What 、ノット氏→Not 。そう見える。そういう意図だろう。
では、先にあるのはどちらか? What? という問いかけが先にあるのか、語り得ぬもの Not が先にあるのか?
先にあるのは問いかけである。「何を語るべきか」という問いかけ、語り得るものを全て語り尽くそうとする暴力的な試みの果ての、決して届かぬ終着点として仮構されたある一点が、語り得ぬ Not である。
語り得ないものを語ろうとしたことよりもまず、語れないことが問題であった。何も語れないワットの行き着く先、最後の到達点があのノット氏の家であった。
語り得ないものに近づくことで人は罰を受けなければならないだろうか? あまりに極に近づき過ぎれば常人ではいられなくなる、という点では確かにそうかもしれない。だが、いかに常人のふりをしようとしたところで、何も語れないという罰は最初から受けている。
無限の問いかけ What? はワットというアバターに結晶し、彼を問いかけの極へと送り出す。
我々は問い続けなければならない。例えそこに神がいなくても。


構造 語られる主人公


ワットにおける語りの問題は後に見るとして、ここでは、ワットの登場と退場を見る。
本作は、ワットーサムと、二重の語り手を持つ構造となっている。
また、サムによると

ワットは彼の話の始まりを最初にではなく二番目に語ったが、それと同じように話の終わりを四番目にではなく三番目に語った。二、一、四、三、これがワットの話の順序であった。そういえば、英雄詩の四行連句も似たようなひねった構造である。(p.255)

とのことである。
だが、ワットがサムにどう語ったかはともかく、読者は、サムによって再構成された「事実順」の時間構成によって一連の物語を追うことになる。


また、サムによる語りという体裁から、本作は基本的にワットに焦点を当てた三人称によって語られるが、最初と最後の、ワットの登場・退場のシーンにおいては、ワットがサムに語り伝えることができなかった光景が描かれている。明らかにここにおいては神の視点が取られており、ワットーノット氏の物語とは無関係な人々が描写されているのである。
ここにおいては、ワットの体験、サムの語りという体裁は無視される。これは、体裁は体裁であり厳密に守る気はない、と暗に示しているように見える。


では、なぜそのような不整合をあえて行ったか。
二重の語り手、という点を付随的・副次的なものと見れば、本作の構造はシンプルである。


・ 駅における「普通の」人々のシーンでワットが発見され(登場)、ワットが出立する。
・ ワットーノット氏の物語
・ 駅における「普通の」人々のシーンにワットが帰還し、そして人々を場に残してワットが退場する。


最初と最後のシーンでは、語りの焦点は駅の「普通の」人々にある。
最初のシーンで、ワットは、ハケット氏、ニクソン夫妻によって発見され、彼等の会話上の叙述によってその最初の性格を形づくる。彼等は遠景からワットを見て、要領を得ない会話をするだけで、地の文はワットを一切描写しない。
ハケット氏は何故か、よく知りもせず、遠くから見ただけのワットに対して非常に強い好奇心を抱く。
ニクソン氏は

まことに奇妙な話なんですが、あなた、隠さずに言ってしまいますとね、やつに会ったり、やつのことを思ったりすると、わたしはいつもあなたのことを思い出すんですよ、そしてあなたに会ったり、あなたのことを思ったりすると、いつでもやつのことを思い出すんです。どうしてなのか、さっぱりわからんのですが。(p.22)

ハケット氏に言う。
ここにおいて、「語り得ない」存在はワットである。ハケットとワットは何かしら近しい存在であることが暗示される。だが、明瞭な回答はない。
ハケットの視点を共有した読者は、明確なイメージを持たないが、自分に近しい何者か(What)としてワットを発見する。
だが、

あのひとがなにをしてたって、とニクソン夫人は言った。どうやって暮らしてたって。どこの生まれだって。どこへ行くところだって。どんな風采だって。そんなことなんの関係があるんです、わたしたちにとって?
わしも同じ質問を自分にしとるんじゃ、とハケット氏は言った。(p.28)

という疑義は残り、決定的な関連性を見いだせぬまま、駅の人々からワットへと焦点は移動する。
時間は夕暮れ時。ワットーノット氏の物語は夜に始まる。


ワットーノット氏の物語、中身は飛ばして、そのラスト。
出立は夜にやってくる。ワットは、後任のミックスの突然の来訪に立ち会い、ノット氏の家から立ち去る。ここに見られるのは個人の意志・思想を超えた厳然たるルールである。
家を去るワットの心情はいかばかりか。細かい検証は後にまわすが、「彼が待ち望んでいる休息と暖かさ(p.262)」「されこれでわたしも釈放だ、とワットは言った、どこへ行こうと自由の身というわけだ。(p.281)」という記述から、解放された、役目を果たした、というニュアンスは伝わってくる。
解放されたワットはどこへ? ワットは駅へと向かう。駅には「普通の」人々がいる。


駅についたワットは待合室で夜を明かす。その後、徐々に視点は「普通の」人々へと移っていく。ワットについての描写は、彼が「終わり」までの切符を買う所で終わっている。彼が汽車に乗る様、汽車が出発する様は明確には描かれない。作品の(補遺を除いた)ラストは、駅の「普通の」人々が、夏の日の朝の景色を見つめるところで終わる。


駅の人々の中で、注意すべきは駅長のゴーマン氏である。彼はラストシーンの場の実質的な主としてふるまう。
彼は「非常に長い腕をもっていた」と描かれている。そしてそれは、ワットが家から駅に向かう途中で遭遇した、「男あるいは女あるいは司祭あるいは尼僧」と言われる「深夜の彷徨者」と、身体的特徴の上で合致する。
「深夜の彷徨者」とは何者か? 彼の正体は結局明かされない。ワットと会話をするわけでもなく、ただワットの視界に現れ、ワットとの距離を保ったまま消えてしまう。

ワットは、なぜか、この幻覚を特別に興味深いものと見なしているようであった。(p.270)

「深夜の彷徨者」は、まるで、最初に駅に登場したワットの鏡像のようではないか。突如あらわれて、何者であるかはっきりと確かめることはできないが、何故か興味を引かれる。ちょうどハケット氏がワットを見たように、ワットは「深夜の彷徨者」を見る。視線の移動による焦点の移動。と、見れば、ハケット氏→ワットという焦点の移動と同じく、ワット→ゴーマン氏という焦点の移動が最後に行われた、そう言うことができるだろう。
ワットの語りを引き継いだのが語り手のサムであるとすれば、焦点=読者の視点をワットに渡したのがハケット氏であり、ワットから引き継いだのがゴーマン氏である。


本作において、語り手として、旅人として、の二つの意味で、ワットはノット氏の家(=異界)へと旅立ち、そして帰還する。彼は、「普通の」人々(ハケット氏、ゴーマン氏、サム)の探求(What?)を一身に背負い、その極へと至る。その姿は、さながらキリストのようである(p.188で直接的にそう描かれているように)。
最後の4章においては、山羊のモチーフが登場する。ワットがノット氏の家から駅に向かう途中には、「驢馬または山羊」がいてワットを見送る。ラストの、ワット退場後のシーンでは、以下の叙述がある。

なんのかのと言うたとて、とゴーマン氏が言った、人生ってもんはまんざら捨てたもんじゃない。彼は両手を高々と上げて、ひろげ、礼拝のしぐさをした。それからその手をふたたびズボンのポケットに戻した。なんのかのと言うてもじゃ、と彼は言った。
またライリーおやじのとこの山羊だな、とノーラン氏が言った、ここからでも臭いでわからあ。
それなのに神はいないなんて言うひとがいるんですからね、とケース氏が言った。
あまりと言えば途方もないこの言いぶんに、三人はそろって大笑いをした。

この後、三人は、「で、わたしたちの友人は?」と言ってワットを探すが、既にここにワットは居ない。
朝の景色を描いて、作品は終わる。
山羊は、神への犠牲を連想させる。そして、人々の代表として語り得ぬものに切迫したワットにも相通ずる。


語り得ぬものノット氏、語りの極にあって苦しむワット。本作は語り得ないものが、どれほど語り得ないものなのか、をワットという媒介を通すことで語った、と言えるだろうか。語り得ぬもの、をキリスト教の神とみなしていいのだろうか。神だから語り得ないのか、語り得ないから神と呼ばざるを得ないのか。
「神はいない」と言明したとしても、言明行為の不可能性の背後には、常に語り得ぬものが待ち構えている。語り得ぬものに名をつけるなら「神」の語をもってするしかない。あるいは、神は、ただ「語り得ぬ」ということのみをその定義にしなければならないのかもしれない。


あとがき

しんどかった。
まだ本作で書くことがありそう。ワットの語れない問題とか、各挿話(リンチ家、ナッキバル氏の三乗根)。
その2として書くかもしれないし、他の作品の後にするかもしれない。