『虐殺器官』 抑圧者としての母、そして父

虐殺器官』読んだので諸々。
特に、クラヴィスの母、という点をちょっと突っ込んで見てみたい。

前提

読んだ直後の自分の感想等は↓。
http://twilog.org/doitaka/date-121022


以下の点は、とりあえず前提ということでいいと思う。
・ 特殊部隊員としての「ぼく」、及び、その殺害行為のリアリティの無さ。
・ 虐殺の文法=ことば


「ぼく」が虐殺の文法を得ることで、世界で起きる痛ましい事件との間に接続を持てるようになった、というまとめ方が可能と思われる。


これを、少年的な全能感の幻視、と解釈することはできる。
ただ、その全能感を成立させる道具に「ことば」を選んでいるところがミソで。つまり、我々は皆、虐殺の文法を生まれながらに備えており、日常的に使用していて、この世の様々な罪の加害者であり得る、という事態の戯画的表現、とも取れる。引き起こされる「事件」が、世界規模の虐殺として提示されれば、フィクションの出来事という受け取られ方はするが、「事件」のスケールを小さくして、町内、組織内のレベルにまで落とせば、フィクションとは言っていられなくなる。


この辺りの読み方は読み手次第ということになりそうだが。
「ことば」を道具に使って、メタフィクション的構造を作ったことで、可能な射程は結構広くなっていると思う。



で、↑はラストから全体を俯瞰的に見た見方になるが、もうちょっと個人の問題に近そうな部分として、母と「ぼく」の問題があると思われる。
そこを注意して追ってみたい。

母に関する記述

ハヤカワ文庫版のページ番号で、主要な母についての記述箇所を挙げてみる。


p12
死者の国の最初の記述。
母も死んでいるが、クラヴィス自身も死んでいる。父への言及もあり。
死者たちとの合一。和解?


p15
「ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ」


p19
死者の国の説明。
母の客観的状況の最初の記述。


p29
ポッドによる降下を「母親の死を追体験している」と叙述。


p42
「お前はことばにフェティッシュがあるようね。言語愛者、とでも言うべきかしら」
母によるクラヴィス評。


p68
父の自殺への言及。
「そういうわけで、母は父に呪われたのだ」
父の血と脳漿をだれが掃除したのか、という疑問の提示。


p106
死者の国、二回目。クレーター。
焼けた死体の描写。
飛行機による死者の国からの離脱。


p109
死者の国の説明、二回目。
アレックスの自殺後、死者の国の回数が増える。
母の「ぼく」への視線に関する言及。

 母さんはぼくのことをいつも見ていた。それは、そうしていなければ目の前からいつぼくが消えてしまうかわからない、という怖れのためだったのだろう。父が消えたように、人間は、完全に理解を拒む状況でいなくなってしまうことがある。母はそれを怖れていた。
 ぼくは比較的幼い自分に、そんな母さんの怖れに気がついていたから、できるだけ母さんに心配をかけないようにふるまった。


p140
ルツィアとの会話後、ジョン・ポールが好んだ風景と、死者の国の類似性への言及。


p157
死者の国、三回目。プラハ
皮膚を剥がされた姿の描写。街並み、および、母。
筋肉の赤のイメージ。
母による断罪。クラヴィスの殺害行為の罪への言及。
追及を受けて苦しむ「ぼく」。


p188
ルツィアへの告白。
母を殺害した際の状況詳述。
家における母の視線への言及。

 眼だ、とぼくは思う。
 この家が眼だったのだ。父さんのように、ぼくがある日突然消えてしまわないように見つめる母さんの眼。ぼくはこの家でその視線を感じながら育ってきた。
 (中略)
 ドメスティックな追跡可能性だ、とぼくは思い、かつて自分のものだったベッドに腰掛けて笑った。
 母親の世界だ、とぼくは思う。
 誰かが消えてしまわないように見つめ続ける母親の、複数の眼。
 どこかの時点で、ぼくはそれに息苦しさを感じたのだ。だから軍隊に入ったし、特殊部隊に志願した。お望みどおりだ、クラヴィス・シェパード。危険はたっぷりだし、屍体もうんざりするほど見れただろ。それでいてまだ自分は死んじゃいない。自殺ではあるけれど戦友だってちゃあんと失った。完璧な現実体験じゃないか。それ以上なにを望むっていうんだ。
 ぼくはそこで考えるのをやめる。それ以上考えるのが恐ろしかったのだ。


母への感情についての言及。

 ぼくは母さんを愛していた。それは間違いない。
 恐ろしかった。自分が母を嫌っているのではないか、という可能性が。女手ひとつで自分をここまで育て上げてくれた母を、自分が心のどこかで疎ましく思っているという、そのかすかな可能性が。


p202
告白の終了、ルツィアとの会話再開。
ルツィアによるクラヴィスの是認(?)


p259
カウンセリングでの「意思」についての問答から、母の生死の議論への連想。


p335
物歴(メタヒストリー)の話題から、母のライフログへの連想。


p384
ジョン・ポールの死。

焼けた死体は腐敗しない。防腐処理を施されたぼくの母親もまた、腐敗しない。ジョン・ポールは土に還ることができるぶん、そのいずれの死体よりもまだ幸せなのではないかと思えた。


p390
母のライフログの獲得、閲覧。

 ソフトウェアが吐き出した母さんの人生。
 つねにぼくを見つめていた、一対の瞳の物語。
 けれどそこに、ぼくの場所はなかった。

 でも、とぼくは混乱する頭で自分の過去を繋ぎとめようとする。あの気配、あの肩口に感じていた視線は本物だったはずだ。
 (中略)
 しかし、その視線が愛情だと証明してくれるはずの記録は、ソフトウェアが吐き出した、母の物語のどこにも残ってはいなかった。
 では、あの視線はいったいなんだったのか。
 作戦が終わって、ぼくはからっぽになったと思いこんでいたけれど、そこが真空ではなかった。真の空虚がぼくを圧倒した。


以上。


父と母

本作のシェパード家に見られるのは、父の不在、母と子の近接、である。


本作でクラヴィスが強く意識を向ける相手は、母、ルツィア、ジョン・ポールの3名のみと見れる。
母とルツィアは同質の存在、ジョン・ポールは、自分自身、或いは、空想上の父と見るのが妥当か。


ジョン・ポールは、作中では超克すべき存在というよりは、追求すべき存在として描かれている。
ジョン・ポールは、虐殺の文法をクラヴィスに伝えるもの、クラヴィスを導くもの、メンターの役割を負っている。この点では父的ではある。
だが、クラヴィス自身に直接的に抑圧をかける者、という性格は薄い。敵対者というよりは、再発見すべき自己の姿の性格が強いと言える。
(ルツィアの夫、という意味での、敵対者としての父の性質はあるが…)


よって、本作で支配的なのは、母であると見れる。
母という強力な他者、自分に強く影響を与える者、との対峙。これが本作の背骨であり、特殊部隊による作戦や、ジョン・ポールを巡る事件は、全てこの背骨から派生するものである、と。


ラヴィスの人格は、父不在の環境下で形成される。
ラヴィスは作品の開始時点で軍人となっているわけだが、軍人としての力の獲得過程はそこに存在しない。力を獲得する過程、力を得るための葛藤、つまりはイニシエーション的なものが無く、結果として空想的な「何となくすごい力」を持っているに過ぎない。
そこに、無力な少年が「家」から逃れるための自己形成の過程はない。


父がいれば、父が抑圧者として働き、父への反発によって子の自己形成が行えたかもしれない。
だが、シェパード家に父はいない。そしてクラヴィスは、母から逃れるように軍隊に入り、だがその後も抑圧者としての母を幻視する。


母と子

父と男子の関係は、同質(ホモ)でありそこに直接的な反発が起こり得る。
母と男子の関係は、異質(ヘテロ)である。


本作の、近接した母と子の関係において、母は、自分を視る者=束縛者として描かれる。
ヘテロな関係において、直接的な反発は為し得ない。この意味では、手の届かない存在として、死後の母が自分に語りかけるという形式は適切である。
結局クラヴィスは、形式的には、軍に入ることで母から逃れる。


ラヴィスの母に対する欲望の内容は何であるか。


母から逃れたいという欲求。
母から物理的に離れたクラヴィスの描写。そして、母を殺害したこと。
母の束縛から逃れた個としての自分を、形式上は作った。
しかし、作中の母の支配力はそれだけでは減ぜられない。
それは母への別の欲求があるから。


母に愛されたい、是認されたいという欲求。
本命はこちらということになる。
自分の是認者と成り得たルツィアが結局は失われたこと。エピローグにおいて、「母の視線が愛情ではなかったこと」が描かれたこと。そして、それがクラヴィスにとって「真空」だったということ。
欲求が存在するが故に「それが満たされないこと」が描かれなければならない。
父不在のシェパード家においては、母が父を愛し続けることなどできないはずだった。そこは母子の結びついた、子にとっての理想状態のはずであった。だが、違った。失われたかに見えた父は母の中に残っており、子が「家」に留まり続けることは不可能だった。


銃で自殺した父の血と脳漿を拭ったのは母である。この時点で、母と父は分かちがたい結びつきを得、子による母の奪取は不可能となった。
不在の父は、最も強力な抑圧者へと転換された。
これらの父母の前では、仮想の父から受け継いだ虐殺の文法でさえ無力である。


ここにおいて、虐殺の文法とは何であろうか。
自分と外世界をつなぐもの。外世界に影響を及ぼせる力。自分が一人前であることを示せるだけの強い力。


だが、それでは不足なのだ。
ラヴィスは、ただ黙って母から離れればよかった。「真空」に耐えればよかった。
空想的な力は、ついには自己の破滅を幻視させる。



まとめ

……と、まとめてみたが。我ながら変なオチになった気もする。


未成熟な主人公、父の不在、母子の近接、というのは、いかにも現代日本的なテーマという感じがする。まー、ラノベに頻出する型というか。
本作は、正面からそこに突っ込んだというよりは、これを軸の一本として使い、諸々のヨタなネタを絡めて駆動させ、破滅オチをつけたという所だが。


しかし、エピローグの母のライフログを読むところ。仮に、あそこで、ライフログの内容が、クラヴィスのことばかりを書く形になっていたらどうだっただろうか?
母子が相思相愛で、子が母から永遠に逃れられない形になったのではないか?
本作を通して見られる罪の意識の背景に「そういうこと」への罪意識があるとか?


……ライフログがそうなってたら、そもそも作品が成立しなかっただろうとは思うわけだが。


まーこういう方面から見ることもできるのではないか、と。