戦国コレクション13話 善住坊回 武将の「名」

順番が前後するが、杉谷善住坊の回について。
1クール目のラストで、実質信長回とも言えるわけで、ちょっと気になったところをまとめてみる。


この回でなんといっても特徴的・謎なのは、現代の女子高生アゲハの存在である。
結論を先に言ってしまえば、アゲハは信長の現代における分身と言えるのではないか。


信長・アゲハの二重性を、信長、善住坊のそれぞれの視点から見る。


信長にとっての二重性

本話での信長は、1話での登場から時間が経っており、現代世界での生活にも慣れてきたものとして描かれる(いきなり十数万の現金を引き出すとは…)。
戦国世界に帰るという当初の目的は忘れていないはず……視聴者的にはそう思いたいが、これまでの話の流れでは、現代世界に残る選択をする武将の方が多いわけで一抹の不安が残る、そんなところである。
そこにアゲハが現れる。


スライディングによるエキセントリックな登場をしたアゲハ。
交通事故的な登場の後、ハンバーガーショップで対話、という流れは1話の信長のケースと全く同じとなっている。だが、今回はアゲハが1話での信長の位置にある。


もはや隠すこともなく、アゲハは「現代における信長」であるかのように、天下取りの夢を語る。
1話で太田青年が得たのと同じ困惑を今度は信長自身が得ることになる。果てには、「このうつけ者が」という決めゼリフを信長の方が使うことに。


1話の太田青年は、「織田信長」という名を歴史上のソレと重ね、目前の信長との差に困惑させられていた。
だが、アゲハには「織田信長」という名の特殊性が通じない。「織田信長」「小悪魔王」だから天下を取る、というロジックは彼女には通用しない。


アゲハの夢もまた、天下を取ることである。アゲハに対しては、信長は一人の人間として対峙しなければならない。
だが、一つの世界に天下取りを狙う二人の人間は共存できない。だから、ハンバーガーショップで信長はアゲハに自分の夢を語ることができなかった。
信長が天下取りの夢を語る時には、二人は天下を巡って敵対するか、或いは、それぞれ別の世界で天下を取るために離別しなければならない。
結局、最後には二人は別れることになる。引き延ばされた離別までの猶予、それが本話の小旅行である。



善住坊にとっての二重性

善住坊の視点で見ると、本話は、信長暗殺の試み → 暗殺の断念、という話である。
なぜ暗殺を断念したのか。
最終的には、善住坊はアゲハの友達となることを選ぶ。
本話における信長とアゲハの二重性からすれば、信長を殺せない理由は、アゲハを殺せない理由と明確に同義なのだ。アゲハの友達になることを選ぶ以上、信長の暗殺継続はあり得ない。


つまりは、本話は、善住坊が信長と違う形で出会っていたら、というIFの物語。
そして最初から信長=アゲハに心惹かれていた善住坊にしてみれば、暗殺を諦めるまでの過程は、「暗殺者」という戦国世界から背負ってきた「名」を手放すまでの葛藤である、と言える。


武将の「名」

「自分には「名」しか残っていない」「今さら生き方を変えられない」というのはキャラクターの一つの類型である。
大規模な世界転移をスタートに持つ本シリーズでは、武将という「名」の在り方が一つの主題となる。
信長は、誰よりも自分の「名」にこだわる。そして、そのこだわり故に、他の武将の「秘宝」を奪う。
本話を見れば明らかだが、「秘宝」を奪うことは、武将をその「名」から解放することに等しい。
家康のように、「名」を一度失ってもなお自分の生き方を変えず、新たな「名」を獲得する者がいる。一方で、謙信のように、「名」からの解放を契機に新しい生き方を見つける者がいる。本話の善住坊は後者のパターンと言えよう。


信長の立場は特殊である。
本話におけるアゲハの存在は、信長に再度、天下取りの夢、戦国世界への帰還を再認識させたはずである。
端的に言えば、現代世界にはアゲハがいるから、信長の居場所はないのだ。
モブ長などと呼ばれつつも戦国世界を一人で背負うかの如き姿。
帰着点はどこか。
実に気になる。

戦国コレクション18話 大谷吉継回 天使の降誕

大谷吉継回観た。油絵調の背景、抑えたBGMの中で二人の少女が手紙を交互に朗読する構成、シンプルながら印象深いストーリー、記憶に残る回だった。


もはや過剰に語るのも野暮という感じだが、例によって諸々整理のために書いてみる。


なお、本作は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」他、いくつかの映画を題材にしているとのこと。
不幸な出来事を「偶然のラッキー」という主観的なメソッドで幸福に転換させる、という点は「ダンサー〜」に似ている点ではある。ただ、「ダンサー〜」ほどの強烈な不幸の表現、事件構成とは異なり、今作は文通というギミックの上に、いかにも短編的なラストで落とすタイプの話を構築している。いずれにせよ、元ネタ語りは得意ではないので、後はオリジナル作品のつもりで。

虚像と実像

本話の流れはおおまかには以下となる。


・ 吉継の生活。孤独のうちに小さな幸福を探す日々。時々不幸。
・ エンジェルとの文通の開始。吉継の生活の充実。
・ 事件。エンジェル訪問計画の頓挫。
・ 文通の停止。
・ 文通の再会。エンジェル訪問の実現。
・ エンジェル宅で見つかる真相。


文通ものでは定番と思われる、いざ文通相手に会ってみたら〜、という展開。
今作での構造は、自分を不幸だと思っている吉継が、空想的な、「素敵な」人物としてエンジェルを置いているところである。エンジェルの存在、エンジェルからの言葉によって、吉継は自分の生活を「ラッキー」なものとして認識してゆく。
「何か素敵なもの」「幸せなもの」「自分にはない何かを持っているもの」としての、虚像としてのエンジェルの構築が、文通の前半で行われてゆく。


この時点では、エンジェルの姿は、少なくとも戦国武将ではない、一般人の女性として画面上には描かれている。だが、これとは別に、吉継の想像上のエンジェルは、外国風の城に居るお姫様のような人物である。ここに、視聴者(神の視点)からの「実際の」エンジェルと、吉継の想像上のエンジェルとのギャップが現れている。
(演出上、視聴者に「実際の」エンジェルをここで見せるのは……吉継と視聴者を乖離させるということになるわけで良し悪しはあるが……)


エンジェルへの憧憬が大きくなり、吉継はエンジェルに直接会いたいと言い出す。
これは吉継の、「ここより良いどこか」に行きたい、という逃避的・観念的願望と見れる。
だが、不幸な出来事によりこの計画は頓挫し、エンジェルとの文通も停止してしまう。


その後、作中では長い時間が経過。突然エンジェルから航空券が届き、エンジェル訪問が実現されることになる。
そこで、虚像のエンジェルの本当の姿に吉継が出会うことになる。
エンジェルの実像はどのようなものだったか?
お城ではない、都会の薄汚れたアパートに住む普通の女性。そして既にこの世の人ではない、と。


天使の逆転

虚像が崩れて実像に塗り替えられる瞬間は劇的なものである。
今作のこの塗り替えの瞬間はどうであったか。
一言では言い表せない程に複雜に、不幸と幸福が交じり合った姿を呈している。


エンジェルの実像は、そのアパート、その不在、そして最後の手紙によって明らかにされる。
何よりもまず、彼女は幸福とは言いがたかった。吉継を救ったかに見えたあの手紙で、本当に救われていたのはエンジェルの方だった、と。単純には比べられないとしても、孤独ながらも生きていた吉継に比べて、生死の境にいたというエンジェルの方がより深刻であったとすら言える。
不幸な吉継を幸福に導いたのは、不幸なエンジェルの言葉であった、と。


そして、エンジェルは吉継の訪問のその間近に死去した。吉継に旅費を送るための過労がたたって、と言われている。吉継に責任の一端はあるのかもしれない。不幸な出来事である。
このエンジェルの死の、「偶然のラッキー」は何だろうか?
孤独に死ぬはずだったエンジェルの最期を吉継が見届けたこと。吉継が最後の手紙を読んだこと。最後までエンジェルが吉継のための手紙を書いていられたこと。
そういうことではないだろうか。


本作の一連の出来事をエンジェルの側から追ってみるとどうなるだろうか。


・ 何らかの苦しみによる死の決意。
・ 吉継からの四つ葉のクローバーの手紙を受け取る。自死の中断。文通の開始。
・ 文通しながらの生活。
・ エンジェル訪問にまつわる事件。
・ 文通の中断、吉継の旅費を貯める。
・ 吉継にチケットを送る。
・ 最後の手紙。死去。
・ 吉継の訪問。


吉継との文通がなければ、チケットを買うための過労でエンジェルが死ぬことは無かったかもしれない。だが、最初の吉継からの手紙がなければ、エンジェルは自死を選んでいたかもしれない。
吉継との一連のやり取りを、エンジェルの最期の奇跡として見ればどうか。死の際にあったエンジェルが、最期に友人を得て、最期を看取ってくれる人を得たと見れば。ならば、エンジェルでなく、吉継こそが天使なのではないか。


天使としての吉継

視聴者の視点に戻る。
画面上に描かれる姿を見れば、現代世界の普通の女性のエンジェルよりは、戦国世界から来た、青い髪、包帯を巻いた姿の吉継の方が空想的である。
吉継の住むのは、日本人の視聴者から見ればよほどおとぎ話的な、(おそらく北欧の)異国の地である。これに比べれば、エンジェルの住む(おそらくアメリカの)雑然とした都会の一画は日本の現代に近い。
さらに、吉継の住む地で強調して描かれるのは、天上の光である。


空想的なのは吉継の方だ。
彼女は孤独に、だが純粋に生きる。悪を知らず、人並みの苦しみを抱えてけなげに生きる。
彼女は小さな幸運を、四つ葉のクローバーを探す。
もしかしたら、その幸運を、地上の人間に手紙に添えて送ってくれることがあるかもしれない。


本作において、本来の天使たる吉継は、「エンジェル」の名を持つ人間との対話を行う。
エンジェルに救われた吉継は、だが、最後には、自分の方もエンジェルを救っていたのだと気づく。
人を救えたという点において、吉継とエンジェルは対等である。
エンジェル亡き後、その最期に立ち会った吉継は、自分が「エンジェル」であった、と気づくのではないか。


エンジェルとの対話を通して、「エンジェル」の名を吉継が獲得する、そういう話として見れるのではないか。
天使が救うのは全人類かもしれない、或いは、エンジェルただ一人だったのかもしれない。

「ダンサー・イン・ザ・ダーク」 全ての種類の幸福

ダンサー・イン・ザ・ダーク [DVD]

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見た。問題作とのことでヒヤヒヤしながらであったが、蓋を開けてみれば大傑作と言っていいのでは。
自分史上でトップクラスの作品。流した目汁の量は1位だった。


感想じみたことを書いてみる。
ネタバレあり。

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「おおかみこどもの雨と雪」 母と子と、そして母の物語

観てきた。
良作。


タイトル、イメージからは内容が想像しづらい映画ではあったが、見終わった後で振り返れば、確かにあのイメージはとても正しいと思わせられる。
これから母親になる少女の物語、「特殊な」事情を持った二人の姉弟の物語、そして母親になった少女の物語。そういうイメージだったのだと。


以下、ネタバレ込みで内容など。

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「ルナシー」 悪夢とその実現

ヤン・シュヴァンクマイエル「ルナシー」 [DVD]

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タイトルの LUNACY は精神病だか狂気だかという意味だそうで。


端的にまとめれば、拘束衣をつけられる悪夢に怯えていた青年が、色々あって最後に本当に拘束衣をつけられて精神病院に収容されるお話。
予知夢が現実になる、という系統の話である。


一般的な基準で言えばバッドエンドなのかもしれない。
ただ、「自分は精神病で病院に入れられるかもしれない」という漠然とした不安に苛まれるより、精神病院に入れられてしまった方が楽、と、そうも言えるかもしれない。
自分が恐れているものを、映像という確かな形を持ったものに落とし込んだ、そして映像作品として外側から見た、という、一種のセラピー的な作品と言えようか。


監督が作品冒頭で、「この作品に芸術性を期待されるのは間違いです」「芸術は死に自己満足で広告的な物だけが残りました」と直々に述べている。
確かにまるで救いのない、極めて個人的な作品に見える。あるいは、むしろ、そう名言することで、その背後の何かの存在に注意を向けさせようとしているのかもしれない。

主人公

どこかの部屋で、主人公が夜にノックの音で眼を覚ますところから作品は始まる。
拘束具を持った男たちに捕らえられそうになり、必死でこれに抵抗する。
一つの端的な、普遍的な不安・恐怖の提示。
主人公は「不安を抱えた青年」というロールとなる。


結局、これが夢であったということが提示され、同じ建物で寝ていた人々によって主人公は目を覚まさせられる。
特に、主人公にビンタをした赤いガウンを着た男は、「正常であること」「自制的であること」の象徴であるかのように印象づけられる。


後に明かされるが、母が精神病院に入っていたことで、自分もそうなるのでは、という不安を抱えるというのは……どっかで聞いた話である。というか芥川龍之介そのまんま……。

侯爵

翌朝、舞台は集団食堂に移り、ここがホテルのような宿泊施設であったと分かる。
昨夜の赤いガウンの男「侯爵」は、時代錯誤のような貴族然とした風貌。昨夜とは変わって、一般的な「正常」とは異なる個性的な人物として描かれる。
ここから、侯爵は主人公の導き手として、ストーリーを展開させる。


主人公は侯爵の城に招かれ、そこで夜に涜神的な儀式を目にする。
侯爵による神への恨みの言葉、乱れた性行為。
後にキーパーソンになるシャルロットも、「無理矢理」儀式に参加させられる少女としてここに登場する。
翌朝、主人公が侯爵の冒涜行為を避難すると、侯爵はそこで、自然・宗教・善悪についての講釈を垂れる。展開されるのは、キリスト教的な神の概念、善悪への反抗である。一神教以前の原始宗教的善悪観と言えるかもしれない。


演説を終えた侯爵は、急に苦しみだす。この後、「早すぎた埋葬」的一連のシーケンスが展開。
埋葬した侯爵が翌朝復活する、という茶番劇に主人公が参加させられる。
そして、その理由として、侯爵の母の「早すぎた埋葬」事件、侯爵に表れる強硬症、母への同一化願望、が語られる。
ここに来て、主人公と侯爵の類似性が明らかになる。


侯爵のキャラクターは、常識にとらわれない、良識を馬鹿にしたような言動、そしてその哄笑、に代表される。
主人公から見れば、自分をすべて見透かされているかのような存在である。
「早すぎた埋葬」のシーケンスからは、主人公は侯爵の過去の姿、侯爵は主人公の未来の姿、という対応関係が示唆される。侯爵は、非常識な言動ながら、「異常な」自分を十全にコントロールしている。異常行為によって「異常な」自分を制御し、「正常な」生活をおくっている、というように。「正常な」思考をしているが、「異常な」自分をコントロールできず、結果として異常行為を行なってしまう主人公とは対比的である。
侯爵の「異常さ」は主人公にとって救いとなり得るものだった、この時点ではそう見える。


シャルロットと地下室の男たち

「早すぎた埋葬」シーケンスを経て、舞台は精神病院へと移る。
ここも侯爵と同じく、異常行為によって「異常」を制御しようとする病院である。病院内は患者が自由に動き回り、内部は鳥の羽が飛び回る異常な空間となっている。


ここで、キーパーソンとなる若い娘、シャルロットが登場する。
シャルロットは、主人公の内なる願望に応えるかのような、「正常さ」を備えた美しい女性として映る。
主人公の目に映る「正常さ」に対して、侯爵は「シャルロットは色情狂だ」と言う。シャルロットを信じるか、侯爵を信じるか、が主人公の選択となる。
選択に悩む主人公を、シャルロットは地下牢に案内。地下牢には、侯爵に幽閉されたという本当の院長たちが居る。ただし、彼等は全身の鳥の羽をつけて無言で食料を漁る、「何か恐ろしいもの」として描かれる。
シャルロットの望む「正常」は、彼等、地下室の男たちの解放である。


続く、「民衆を導く自由の女神」の絵の再現の場面。
これを前にして「自由バンザイ!」と皆が叫ぶ。
侯爵の支配する病院における「自由」。これは、地下室の男たちから勝ち取ったものである、と取れる。そしてそれは、彼等の復活によって失われるものである、とも。


絵の再現シーン、女神の役のシャルロットに、興奮した男が襲いかかる。これは「自由」ゆえに認められるべき行為ではないか。しかし、主人公はこの男からシャルロットを救い出し、続いて侯爵たちに「シャルロットは僕の婚約者だ」と宣言する。
侯爵の「自由」な世界において、世俗的な婚約という概念を、「彼女は僕のものだ」という個人的なルールを持ち込む主人公。この後に起こる、楽園の崩壊が、主人公の「個」「自我」によってなされると見れば興味深い。
侯爵はただ、哄笑するのみである。

暴力の世界

侯爵たちの不在の隙に、主人公は鍵を見つけ出し、地下室の男たち、元院長たちを解放する。
そこからは、「正常な」ルールに従い、鳥の羽に覆われた黒い男たちが、「自由な」患者たちを暴力で統制する世界へと病院が様変わりしてゆく。


元院長による病院の秩序回復。侯爵は、病院の患者として拘束衣を着せられて登場し、元院長によって"第13療法"を施術される。あれほど破天荒で支配的だった侯爵が、ただ一人の患者として叫びながら手術室に運ばれる様は無残である。
(そしてまた、侯爵の従者の舌を切り取ったのも元院長であったと明らかになる)


侯爵の支配が終われば、元院長の支配が始まる。シャルロットは結局自分のものにならず、元院長の情婦に収まる。
主人公はまた悪夢にうなされるが、赤いガウンを着て主人公をビンタで起こしたのは、侯爵でなく元院長である。そして、元院長の「暴力」は、主人公をただ一人の精神病患者として入院させる対応をするのみである。
ここで本作品は終幕を迎える。


「自由」の世界と「暴力」の世界

後半の、病院の支配が侯爵から元院長へと移る様は、本作冒頭で監督が解説した通りの展開である。
曰く、

この映画の主題は精神病院とそれを管理する者への観念的な挑戦です。
彼らのやり方というのは極端にわけて2つ、
1つは患者たちに完全な自由を与える方法、
もう1つはご存じの通り監視と体罰を繰り返すという保守的なやり方です。
しかし実はもう1つ方法があります。
先の2つの短所を組み合わせ膨らませた原理、それが使われる場所こそ狂気に満ちたこの世なのです。


主人公は、最初から最後まで変わらなかった。ただ、狂気を恐れ、悪夢に苛まれる哀れな青年でしかなかった。彼が「異常かもしれない自分」を制御し得た可能性の一つが、侯爵であったと言ってよい。

侯爵曰く、「恐怖の原因は"未知"だ。つまり未知をなくせば恐怖は克服できる」。
一見破天荒に見える侯爵の振る舞いだが、世俗的な禁忌の概念を無視し、知りたいことを知る、神をも恐れずやりたいことをやる、という実利主義とも言えよう。


対して主人公はどうであったか。彼を支配したのは、シャルロット、そして彼自身が作った彼女の虚像である。
結局、侯爵はシャルロットの本質を理解しており、彼女の狂気をもコントロールしていた。だが主人公は彼女の本質に迫り切れず、「婚約者」という世俗的概念を通して、彼女の虚像を作り上げた。そして、シャルロット自身の狂気は、主人公の虚像を喜んで受け入れた。


主人公の限界は、自分が狂気であることへの恐怖は持てても、シャルロットが狂気であることに思い至れない点である。侯爵のような分かりやすい狂気には逆に振り回される。そして、「正常な」元院長の狂気には、自分が被害者になるその時まで思い至れない、と。


主人公が夢想した「正常な」世界は、取りも直さず、主人公を狂人として幽閉する檻の世界であった。だが、それを主人公の失敗と言えるだろうか。主人公は結局、侯爵の「自由」には耐え切れなかったのだ。
我々は狂人である以前に愚者なのだ。


舌と肉、鶏と羽

本作で目を引くのは、合間合間に挟まれる、舌やら肉やらが動く寸劇である。
言うなれば、グロアニメであるわけだが……。
言葉による語りが行われる世界、人が意志を持った存在として描かれる世界、との対比として、言葉のない世界、物質の世界が提示されていると見れば示唆的である。


特に舌は、作中の、舌を切り取られた人物である侯爵の従者と関連させてみると意味ありげかもしれない。
言葉のない世界での感覚器としての舌。
中には、二本の舌同士が性交をするような寸劇もあった。これらの舌は何の味を感じ取っているのか。


もう一つ、印象的に使われたのは、主に精神病院内で使われた鶏と羽である。
鶏は病院内に放置されているようで随所に出てきたが、舌と肉の寸劇にも登場し、ミンチになった肉をついばんだりしていた。イメージとしては、食欲しか持たない即物的な存在で、病院内の患者と重ねられていたようにも見える。


羽は、病院内に振りまかれ、雪のように降り積もっていた様が印象的である。
自由さ、純粋さ、といったイメージか。
一方で、全身にタールを塗った上で羽を纏っていたのが、暴力の象徴たる地下室の男たちなわけで……。
なかなか難しいところ。


まとめ

あんまりすっきりする映画では……ない。
だが、それがいい、のかな?


ドグラ・マグラ的、というのは確かにそうで、類似点が多い。
しかし、ドグラ・マグラの、あの救いの無い円環構造とはまたちょっと違うか。


まあ、一言で言うなら、悪夢、であろう。

戦国コレクション15話 最上義光回の絵解き

見た。


最上義光スク水少女になってて、古い洋館に友達と肝試しに〜、っていうウォーなあらすじではあるのだが、もう一つの軸として、最上義光伊達政宗の、伯母・姪の関係が含まれている。この伯母・姪の関係が、さらに現代世界で生きることと戦国世界で生きることとの選択の問題にも発展しているのだが、これらの多層の要素をコンパクトに過不足なくまとめていて脚本の精度が高い。
ということで、整理も兼ねてちょっと書いてみる。

洋館探検というモチーフ

雑に言ってしまえば、館=人物の内面、という見立てをした場合、館の中を探検することは、その人物の内面を探る行為という見立てになる。
その館が主人公の内面の象徴である、と見れば、主人公が館を探検するのは、自身の内面の探求、あるいは、自己との対話にほかならない。
本作の義光はまさにその立場となる。


少々紋切り型な対応付けではあるが、件の洋館が少女たちの一人・マオの伯母の持ち物であるという設定は、これを補強する材料と言える。
つまり、マオ・マオの伯母の親戚関係を、政宗・義光の関係と重ねあわせれば、「伯母のもの」であるこの洋館は、義光と対応付けできる、と。


これを起点に見れば、作中の出来事は以下のように対応付けできる。
 ・ 義光が洋館を恐れること → 自己の内面に向きあう事への恐れ
 ・ 村田さん → 自己の内面を明らかにしようとする外的な不思議な存在
 ・ 開かずの部屋 → 無意識に目を背けている何か

政宗との対面

その後、なんやかんやあって、結局義光は開かずの部屋に入ることを決意する。
マオたち現代世界の友人を失いたくない、という心情が、無意識に避けていた不都合な何かへの対峙を決意させたという形。


で、結局、開かずの間にいたのは政宗だった。
義光は政宗を助けることを提案するも、「こちらの世界に残るなら自分と関わるべきでない」と固辞される。
そして、「我々はここで会わなかった」と出会った事実をなかったことにしようとする。


現代世界で、一人の女子学生として生きる義光にとって、向き合いたくない不都合な何か、が政宗である、ということには様々な意味を見出せる。
これは、アバンの義光のモノローグでの、「私はこっちの世界が好き」「家督争いでいがみ合っていた戦国世界とは違って現代世界の方が私にはしっくりくる」「このままずっと平和な世界で生きていきたい」という発言からも明らかである。
つまり、政宗は、戦国世界そのもの、家督争いが絡んだ良好でない親族関係、をも象徴する存在、となる。
現代世界で生きる今の義光にとっての心残り・わだかまりは、政宗の存在で、洋館探検という象徴的手順を経て、これに向き合うこととなった。


義光にとっての最善の結末は何であったか、政宗=戦国世界との関わりを断つこと、館から政宗を追い出すこと。そして、その最善の結末を、他ならぬ政宗自身が提示してきた。
政宗は二度と義光の前に現れることはない。家督争いに悩むこともなくなった。明日から現代の少女として、今まで通り生きていける。
だが、義光は政宗との別れを悲しみ、涙する。
望みどおりの結末は迎えられた、だが悲しい。そういうことである。


政宗が館を去る時、義光は館の屋上に昇り、花火を打ち上げる。
これは「我々はここで会わなかった」という政宗の発言に対する、義光なりの反抗であろう。
確かにここで我々は会った、という証としての花火。忘れないという意思表示。
その音と光は、第三者のユミの耳にも届いた、と。

政宗とマオ

本話でキーパーソンになるのは、少女たちの一人、マオである。
政宗・義光の関係と対比させられる、洋館の持ち主の姪という立場。
言わば、義光にとっての、現代世界での政宗=姪、ということになる。


義光にとっての、戦国世界と現代世界の選択は、政宗とマオの選択という形に象徴化される。
義光が開かずの部屋に入るシーンの直前では、マオが部屋から姿を消している。
象徴的な理屈に従えば、開かずの部屋にいるのは、政宗・マオの二重存在的な何かであり、義光は開かずの部屋での選択によって、その二重存在を、政宗、または、マオのどちらかに固定させなければならなかった。
そして、結果としては政宗は消え、マオが残った。


政宗と別れた義光は、マオに「礼拝堂で会った猫」について話す。
戦国世界の叔母と姪の物語は、現代世界の姪に継承され、現代世界の伯母と姪として和解に至る、そんなラストである。


まとめ

と、こんな感じになっていると思われる。
ぱっと見は、ロリー!キマシー!という感じだが、筋はシンプルながらきっちり通っている。

戦国武将美少女化もの、という謎ジャンルだが、きっちり職人の仕事が入っている。まじめにふまじめ、だなぁ。


途中、村田さんが霊視をして「一人じゃなかった」と叫びながら走り去るシーンがあったが、これはよく分からない。政宗・マオの二重性に関係する? とも思ったが、さすがにそれは合わない気も。


まとめ:義光ちゃんprpr

「アンチクライスト」 森の女たち

アンチクライスト [DVD]

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参考になるレビューはここらかと思われる。


・アマゾン、三本の木氏。
http://www.amazon.co.jp/review/RKKMGEXUGX28/

・みちとの遭遇〜ほとんど映画日記〜
http://ricochan7.blog87.fc2.com/blog-entry-1060.html



三本の木氏のレビューが的確にポイントを付いている。
あらすじ等省略。

アンチクライスト」とは何か?

ご丁寧に、女性マーク(♀)がタイトル"ANTICHRIST"の最後のTに使われている。
まずは、女性≒原始宗教的なもの≒作中で言う"NATURE"≒アンチクライスト≒悪魔(SATAN)、という見立てになる。


もう一つの宗教的な見立ては「エデン」と呼ばれる山荘である。
エデンに夫婦が二人、という舞台設定は、アダムとイブを連想させる。
ラストシーンでは夫が急に木の実を食べだすが、これは知恵の木の実を連想させる。


子供を失ったことが何らかの罰であった、とか、二人の性行為が宗教的な罪であった、という見方は、題材のインパクト的にはやりたくはなるが、あまり本筋とは関係なさそう。


始まりは子供の死だが、その後のストーリー展開は、
・ 夫側 : キリスト的。理性的。科学的。父権的。明示されたもの。
・ 妻側 : アンチキリスト的。感情的。自然。秘匿されたもの。底流。
という対立が徐々に明確化してゆく、という形になっている。


セラピーの過程

セラピストは、家族を診察してはいけない。
だが、夫は「妻を誰よりも理解しているから」という言ってそれを行おうとする。
その結果はどうだったか?
この後一貫して描かれたのは、夫がいかに妻を(そのNATUREを)理解できていなかったか、である。


セラピーは、妻の内面・潜在意識を明示化する方向で進められる。
「恐ろしいものは何か」という問いから、夫は妻の恐怖の根源を暴こうとする。


エデンでのセラピーは、傷ついた妻の治療と、妻の研究の題材「女性に対する虐待の歴史」のイメージが重ねあわされるようにして進められる。夫婦の対話は、人間の、女の「本質(NATURE)」にまで及ぶようになる。


夫が幻視させようとした妻のNATUREは、そのまま夫婦それぞれに振りかかる。


破綻

妻が夫に直接暴力を振るった引き金となったのは、子供に靴を逆に履かせていたこと、に夫が気付いたことである。
なぜ靴を逆に履かせたか、それは作中では明示されない。だが、妻はその発覚を恐れた。それは暴かれてはならない秘密だった、と。


子供が死んだ原因は何か? あれは事故である。靴を逆に履かせたことも、事件の折に夫婦が性行為をしていたことも、直接は関係ない。
だが、妻は、妻のNATUREは、それらを結びつけた。
だから、靴を逆に履かせたことを夫に知られてはならない、知られたら罪を問われて捨てられる。
だから、夫の性器は、妻の性器は傷つけられなければならない。


アンチキリストの論理、NATUREの論理は、妻に、夫に償いを求める。
三博士を連想させる「三人の乞食」。
キリストの生誕に立ち会った三博士とは逆に、三人の乞食が集まることで人が死ぬ。論理の反転した世界。
悲嘆、苦悩、絶望を経て、妻のアンチキリストの論理は、贖罪としての自死を要求する。


だが、原始宗教の世界は、妻ではなく夫に、三人の乞食の顕現としての鹿、狐、烏を幻視させた。
烏は、その鳴き声によって、夫が足枷を外すためのスパナの位置を知らせた。
三人の乞食は誰の死のために集まったのか。妻ではないか。
森のNATUREは、妻に贖罪としての死をもたらした。夫の手を通じて。
子供が死んだ時から、森の論理は、妻に死を選ばせようとしていたのではないか。そして死んだ妻は、あの森の木から生えた無数の手の中に還っていった、と。

ラストシーン:森の女たち

本作は、ある種「女性の邪悪さ」を描いたものと言えなくはない。
だが、その女性に対して、男性にできたことは何か?
絞殺して火葬にすること。魔女を火あぶりにしたように。


妻が火にかけられた次のカット、火が照らす中、エデンを降りる夫の姿が遠景で描かれる。
ここで、象徴的に、画面を埋め尽くすほどの横たわる裸の女たちが画面上に浮かび上がってくる。
森は女たちの死体で満たされている。


夫=男性=キリスト教は女性=NATUREを受け入れられず、暴力で支配することしかできなかった。
森の知恵の木の実を食べた夫が幻視するのは、それでも森に向かう、無数の無貌の女たちである。
男たちによる支配などは所詮は上辺だけのものだったのではないか。


セラピストとして、良き夫としての「楽園」の人生は、エデンでの体験を経て、永遠に失われた。
得られたのは、理性の及ばぬ世界がある、という自らの無力を知らしめる知識である。