『虐殺器官』 抑圧者としての母、そして父

虐殺器官』読んだので諸々。
特に、クラヴィスの母、という点をちょっと突っ込んで見てみたい。

前提

読んだ直後の自分の感想等は↓。
http://twilog.org/doitaka/date-121022


以下の点は、とりあえず前提ということでいいと思う。
・ 特殊部隊員としての「ぼく」、及び、その殺害行為のリアリティの無さ。
・ 虐殺の文法=ことば


「ぼく」が虐殺の文法を得ることで、世界で起きる痛ましい事件との間に接続を持てるようになった、というまとめ方が可能と思われる。


これを、少年的な全能感の幻視、と解釈することはできる。
ただ、その全能感を成立させる道具に「ことば」を選んでいるところがミソで。つまり、我々は皆、虐殺の文法を生まれながらに備えており、日常的に使用していて、この世の様々な罪の加害者であり得る、という事態の戯画的表現、とも取れる。引き起こされる「事件」が、世界規模の虐殺として提示されれば、フィクションの出来事という受け取られ方はするが、「事件」のスケールを小さくして、町内、組織内のレベルにまで落とせば、フィクションとは言っていられなくなる。


この辺りの読み方は読み手次第ということになりそうだが。
「ことば」を道具に使って、メタフィクション的構造を作ったことで、可能な射程は結構広くなっていると思う。



で、↑はラストから全体を俯瞰的に見た見方になるが、もうちょっと個人の問題に近そうな部分として、母と「ぼく」の問題があると思われる。
そこを注意して追ってみたい。

母に関する記述

ハヤカワ文庫版のページ番号で、主要な母についての記述箇所を挙げてみる。


p12
死者の国の最初の記述。
母も死んでいるが、クラヴィス自身も死んでいる。父への言及もあり。
死者たちとの合一。和解?


p15
「ぼくの母親を殺したのはぼくのことばだ」


p19
死者の国の説明。
母の客観的状況の最初の記述。


p29
ポッドによる降下を「母親の死を追体験している」と叙述。


p42
「お前はことばにフェティッシュがあるようね。言語愛者、とでも言うべきかしら」
母によるクラヴィス評。


p68
父の自殺への言及。
「そういうわけで、母は父に呪われたのだ」
父の血と脳漿をだれが掃除したのか、という疑問の提示。


p106
死者の国、二回目。クレーター。
焼けた死体の描写。
飛行機による死者の国からの離脱。


p109
死者の国の説明、二回目。
アレックスの自殺後、死者の国の回数が増える。
母の「ぼく」への視線に関する言及。

 母さんはぼくのことをいつも見ていた。それは、そうしていなければ目の前からいつぼくが消えてしまうかわからない、という怖れのためだったのだろう。父が消えたように、人間は、完全に理解を拒む状況でいなくなってしまうことがある。母はそれを怖れていた。
 ぼくは比較的幼い自分に、そんな母さんの怖れに気がついていたから、できるだけ母さんに心配をかけないようにふるまった。


p140
ルツィアとの会話後、ジョン・ポールが好んだ風景と、死者の国の類似性への言及。


p157
死者の国、三回目。プラハ
皮膚を剥がされた姿の描写。街並み、および、母。
筋肉の赤のイメージ。
母による断罪。クラヴィスの殺害行為の罪への言及。
追及を受けて苦しむ「ぼく」。


p188
ルツィアへの告白。
母を殺害した際の状況詳述。
家における母の視線への言及。

 眼だ、とぼくは思う。
 この家が眼だったのだ。父さんのように、ぼくがある日突然消えてしまわないように見つめる母さんの眼。ぼくはこの家でその視線を感じながら育ってきた。
 (中略)
 ドメスティックな追跡可能性だ、とぼくは思い、かつて自分のものだったベッドに腰掛けて笑った。
 母親の世界だ、とぼくは思う。
 誰かが消えてしまわないように見つめ続ける母親の、複数の眼。
 どこかの時点で、ぼくはそれに息苦しさを感じたのだ。だから軍隊に入ったし、特殊部隊に志願した。お望みどおりだ、クラヴィス・シェパード。危険はたっぷりだし、屍体もうんざりするほど見れただろ。それでいてまだ自分は死んじゃいない。自殺ではあるけれど戦友だってちゃあんと失った。完璧な現実体験じゃないか。それ以上なにを望むっていうんだ。
 ぼくはそこで考えるのをやめる。それ以上考えるのが恐ろしかったのだ。


母への感情についての言及。

 ぼくは母さんを愛していた。それは間違いない。
 恐ろしかった。自分が母を嫌っているのではないか、という可能性が。女手ひとつで自分をここまで育て上げてくれた母を、自分が心のどこかで疎ましく思っているという、そのかすかな可能性が。


p202
告白の終了、ルツィアとの会話再開。
ルツィアによるクラヴィスの是認(?)


p259
カウンセリングでの「意思」についての問答から、母の生死の議論への連想。


p335
物歴(メタヒストリー)の話題から、母のライフログへの連想。


p384
ジョン・ポールの死。

焼けた死体は腐敗しない。防腐処理を施されたぼくの母親もまた、腐敗しない。ジョン・ポールは土に還ることができるぶん、そのいずれの死体よりもまだ幸せなのではないかと思えた。


p390
母のライフログの獲得、閲覧。

 ソフトウェアが吐き出した母さんの人生。
 つねにぼくを見つめていた、一対の瞳の物語。
 けれどそこに、ぼくの場所はなかった。

 でも、とぼくは混乱する頭で自分の過去を繋ぎとめようとする。あの気配、あの肩口に感じていた視線は本物だったはずだ。
 (中略)
 しかし、その視線が愛情だと証明してくれるはずの記録は、ソフトウェアが吐き出した、母の物語のどこにも残ってはいなかった。
 では、あの視線はいったいなんだったのか。
 作戦が終わって、ぼくはからっぽになったと思いこんでいたけれど、そこが真空ではなかった。真の空虚がぼくを圧倒した。


以上。


父と母

本作のシェパード家に見られるのは、父の不在、母と子の近接、である。


本作でクラヴィスが強く意識を向ける相手は、母、ルツィア、ジョン・ポールの3名のみと見れる。
母とルツィアは同質の存在、ジョン・ポールは、自分自身、或いは、空想上の父と見るのが妥当か。


ジョン・ポールは、作中では超克すべき存在というよりは、追求すべき存在として描かれている。
ジョン・ポールは、虐殺の文法をクラヴィスに伝えるもの、クラヴィスを導くもの、メンターの役割を負っている。この点では父的ではある。
だが、クラヴィス自身に直接的に抑圧をかける者、という性格は薄い。敵対者というよりは、再発見すべき自己の姿の性格が強いと言える。
(ルツィアの夫、という意味での、敵対者としての父の性質はあるが…)


よって、本作で支配的なのは、母であると見れる。
母という強力な他者、自分に強く影響を与える者、との対峙。これが本作の背骨であり、特殊部隊による作戦や、ジョン・ポールを巡る事件は、全てこの背骨から派生するものである、と。


ラヴィスの人格は、父不在の環境下で形成される。
ラヴィスは作品の開始時点で軍人となっているわけだが、軍人としての力の獲得過程はそこに存在しない。力を獲得する過程、力を得るための葛藤、つまりはイニシエーション的なものが無く、結果として空想的な「何となくすごい力」を持っているに過ぎない。
そこに、無力な少年が「家」から逃れるための自己形成の過程はない。


父がいれば、父が抑圧者として働き、父への反発によって子の自己形成が行えたかもしれない。
だが、シェパード家に父はいない。そしてクラヴィスは、母から逃れるように軍隊に入り、だがその後も抑圧者としての母を幻視する。


母と子

父と男子の関係は、同質(ホモ)でありそこに直接的な反発が起こり得る。
母と男子の関係は、異質(ヘテロ)である。


本作の、近接した母と子の関係において、母は、自分を視る者=束縛者として描かれる。
ヘテロな関係において、直接的な反発は為し得ない。この意味では、手の届かない存在として、死後の母が自分に語りかけるという形式は適切である。
結局クラヴィスは、形式的には、軍に入ることで母から逃れる。


ラヴィスの母に対する欲望の内容は何であるか。


母から逃れたいという欲求。
母から物理的に離れたクラヴィスの描写。そして、母を殺害したこと。
母の束縛から逃れた個としての自分を、形式上は作った。
しかし、作中の母の支配力はそれだけでは減ぜられない。
それは母への別の欲求があるから。


母に愛されたい、是認されたいという欲求。
本命はこちらということになる。
自分の是認者と成り得たルツィアが結局は失われたこと。エピローグにおいて、「母の視線が愛情ではなかったこと」が描かれたこと。そして、それがクラヴィスにとって「真空」だったということ。
欲求が存在するが故に「それが満たされないこと」が描かれなければならない。
父不在のシェパード家においては、母が父を愛し続けることなどできないはずだった。そこは母子の結びついた、子にとっての理想状態のはずであった。だが、違った。失われたかに見えた父は母の中に残っており、子が「家」に留まり続けることは不可能だった。


銃で自殺した父の血と脳漿を拭ったのは母である。この時点で、母と父は分かちがたい結びつきを得、子による母の奪取は不可能となった。
不在の父は、最も強力な抑圧者へと転換された。
これらの父母の前では、仮想の父から受け継いだ虐殺の文法でさえ無力である。


ここにおいて、虐殺の文法とは何であろうか。
自分と外世界をつなぐもの。外世界に影響を及ぼせる力。自分が一人前であることを示せるだけの強い力。


だが、それでは不足なのだ。
ラヴィスは、ただ黙って母から離れればよかった。「真空」に耐えればよかった。
空想的な力は、ついには自己の破滅を幻視させる。



まとめ

……と、まとめてみたが。我ながら変なオチになった気もする。


未成熟な主人公、父の不在、母子の近接、というのは、いかにも現代日本的なテーマという感じがする。まー、ラノベに頻出する型というか。
本作は、正面からそこに突っ込んだというよりは、これを軸の一本として使い、諸々のヨタなネタを絡めて駆動させ、破滅オチをつけたという所だが。


しかし、エピローグの母のライフログを読むところ。仮に、あそこで、ライフログの内容が、クラヴィスのことばかりを書く形になっていたらどうだっただろうか?
母子が相思相愛で、子が母から永遠に逃れられない形になったのではないか?
本作を通して見られる罪の意識の背景に「そういうこと」への罪意識があるとか?


……ライフログがそうなってたら、そもそも作品が成立しなかっただろうとは思うわけだが。


まーこういう方面から見ることもできるのではないか、と。

戦国コレクション20話 明智光秀回 戦国世界への帰還に向けて

光秀回の後半、19話ラストで目覚めてからの続き。今度は現代世界での光秀を描く話である(ISはInnerSide、OSはOuterSide、くらいの対応と思われる)。
本話は、光秀の物語の一部であると同時に、1話アバンのあのシーン、つまりは、戦国武将たちの現代世界への集団転移事件へと至る過程を描く物語でもある。戦国コレクションという作品のメインストーリーの要所であり、一話完結ではなくなっている。これに続くのは、最終話ということになるだろう。現時点であと3話しかない……。


本話において考えさせられるのは「秘宝とは何か」ということと「信長・光秀の関係はどうすれば解決に至れるのか」の2点である。これらの問を統合して一つにまとめるのなら「戦国コレクションはどうやって終わるのか」ということになるだろう。

秘宝とは何か

これまで作中では明確に語られてこなかった秘宝という設定だが、本話では踏み込んだところまで説明がなされる。
秘宝を持つ者と持たない者がいる、ということ。秘宝は「強い力の結晶」で、「野心」だったり「道を究めんとする心」だったり「業」である、ということ。


そして、本話中では、最初は秘宝を持っていなかった光秀、秀吉が秘宝を得る様が描かれる。しかしその描かれ方は二者で対照的である。
秀吉は、始めから秘宝の有無にこだわらずマイペースに振る舞っており、後に秘宝を得た時には、それは吉事として描かれる。
一方で、光秀は秘宝を持っていないことをコンプレックスにしていた。そして、秀吉、家康等への嫉妬の感情を溜め込んだ末に、それを秘宝へと転化させた。その「暗い」秘宝は、そのまま光秀の理性を奪い謀反へと駆り立てていった。


本話中で、利休は

強い想いは人を強くする、けど、人を苦しめもするのではないか、そんなふうに思えるときがあって

と語っている。
光秀の役どころは、今まで作中で語られることのなかった秘宝の負の側面を体現したもの、と言える。
秘宝=「名」とすれば、光秀の秘宝は「復讐の牙」というそれである。それは「泰平女君」「太閤娘」といった「名」と比べて、どうにも拭えない罪の匂いを含んでいる。


戦国コレクションというシリーズで描かれる一連の出来事の発端には、復讐の秘宝によって為された、光秀の信長殺しという事件がある。罪のない信長、罪を犯した光秀、被害者信長、加害者光秀、この関係が全ての発端にある。
ならば、なぜこの事件が戦国武将たちを現代世界に転移させるという異常な事態を招いたのか? そして、なぜ信長は秘宝を集めなければならないのか?



贖罪と執着、光秀の意志

20話では、光秀による戦国世界での出来事の回想の後、現代世界での光秀と信長の邂逅が描かれる。
このシーンの流れは以下となる。


・ 全てを思い出した光秀が倒れ利休に介抱される。そこで信長が生きていることを知らされる。
・ 信長が秘宝を奪いにやって来る。
・ 一度は光秀が秘宝を捧げようとするが、「やはり渡せない」と言って逃走する。


このシーンでの第一の疑問点は、なぜ光秀が秘宝を渡さなかったか、あるいは、なぜ信長が秘宝を奪えなかったか、である。
信長は謀反に対する怒りを滲ませつつ光秀に迫り、光秀は「それが償いになるとは思いませんが、私の秘宝が信長様のためになるとあれば、喜んで」と秘宝を渡そうとする。だが、いざ秘宝を取る段になり、それが信長との「今生の別れ」になることに思い至った光秀は秘宝を渡すことを拒否する。ここに見られるのは、信長への贖罪意識と、信長を失いたくないという信長への執着の二面である。


第一の疑問点への回答を「光秀が信長と別れたくないから」とするのはよい。それはそれで筋が通る。義輝、石舟斎の回でも同様の図式であった。
だが、第一の疑問点の前に、そもそも根本的な問題がある。
なぜ、光秀の前に実は生きていた信長が現れて贖罪を迫る、などという「都合のいい」事が起こるのか。


このシーンを成立させる「意志」があったとすれば、それは信長ではなく光秀の側にある。
罪の意識に苦しむ光秀だが、その意志の根源は信長への執着であり、信長に罰せられることもまた願望の一つのはずである。一方で、信長はただ秘宝を求めた結果として光秀の元に来ただけであり、その行動原理に光秀の存在は含まれていない。
本シリーズを通して、信長が狂言回し的な役割を担っているのは明らかである。各話でフォーカスが当たるのはその回の武将の方になる。本話においては、信長は光秀の贖罪願望に応じて現れた。だが、光秀の側で、贖罪と執着という相反する願望に折り合いをつけることができず、結果は信長からの逃亡、つまり、回答の先延ばしという形になった。


「都合のよさ」について、もう一段踏み込んで考えてみよう。
光秀の罪の意識は、今の光秀を支配する程に強力なはずである。それが、「信長が現代世界では生きていた」という形であっさりと薄められてしまうのには、視聴者の実感として、拍子抜けしてしまう感がある。
これ程に嫉妬に苦しんで、殺人を犯して、罪を背負って、なのに突然に贖罪の機会が奪われてしまうとは、とても信じられない。それはあまりに残酷過ぎる。
では、この信長は、ここに信長がいるということは夢まぼろしではあるまいか。


信長が実は異世界(現代世界)に生きていて、戦国世界に戻るために駆け回っている、という都合のいいお話。このような筋書きを望んでいるのは誰か? この現代世界のお伽話を成立させる「意志」はどこにあるか? 信長の戦国世界への帰還を望んでいる者は誰か?


19話における推理劇では、光秀の「信長の死を認めたくない」という願望がその劇全体を成立させる「意志」となっていた。その願望が誤りであると暴露され、光秀は信長の死という「真実」を受け入れて現代世界に帰還した。
だが、光秀の夢-現代世界、の対応と同じ構図が、現代世界-戦国世界、の対応にも当てはめられるとすれば、秘宝を集めて戦国世界に帰還しようとする信長もまた、それを望む「意志」によって成立させられた像なのではないか。


ならば、改めて、信長の現代世界行の物語の発端を見る必要がある。
それが同時に、信長の戦国世界への帰還のあり得る姿を示すはずである。


現代世界とは何か

光秀の謀反、及び、同時に起きた現代世界への転移の様は、20話と1話アバンによって描かれる。


光秀は、城の動力炉(?)に火をつけ、城全体が一つの巨大な火柱になる。屋外に出た光秀は自失してただ火柱を見つめる。信長は火に囲まれつつもまだ生きていて、火柱を見て誰の仕業かを覚る。そして信長の足場が崩れ、信長は頭を下に、背を地に向けて、目を閉じて落ちてゆく。一方の光秀は、火柱を見る最中に正気を取り戻す。火柱の中心から強い光が発せられ、信長、光秀は光に包まれる。


戦国世界で起こったことはここまでである。舞台はこの後現代世界に移る。
戦国世界では信長の死が確認されていない。光秀は火をつけた後に信長の姿を視認してはいない。
光に包まれる様が作中で明確に描かれたのは信長、光秀の二者だけである。他の武将はどうやって現代世界に来たのか不明。


戦国世界と現代世界の時間的関係は明確でない。
信長の現代世界への転移が、光秀謀反の時であった事は描かれている。もし信長が戦国世界に帰還できたとして、それが戦国世界の時間的にどの時点になるのかは不明である。


戦国世界での事実からすれば、戦国世界では、光秀の謀反がまだ途中の段階にある。光秀の謀反は、信長の死によって完成される。そして、戦国世界の信長は、今、死にかけてはいるがまだ死んではいない。
では、現代世界への転移、及び、その後の一連の出来事は、戦国世界での光秀の謀反の完成までの間に挟まった、モラトリアム的な事象であると位置づけられないか。
まだ確定していない信長の死=謀反の完成は、モラトリアムの結果によって成否どちらかに決定する、と。
つまり、信長の戦国世界への帰還=戦国世界における信長の生存=謀反の失敗(あるいは撤回)、である。


モラトリアム=夢と言い換えてもよい。
ネタの大筋が夢だとして、思い起こされるのは後期EDのイメージである。
EDのカットの流れを整理すると以下となる。


1 光秀と信長が花園で横たわって目を閉じている。ズームイン。
2 海辺で佇む光秀の立ち姿。画面奥の海に視線。明智家紋。巻貝の貝殻イメージ。
3 光秀口元を側面からアップ。
4 光秀背面腰上。2と同構成。海、貝殻なし。
5 各武将のイメージ(連続)
6 振り返る光秀の膝上全身。顔も映る。色調がピンク→通常に変化。
7 信長背面腰上。
8 目を細める光秀の表情アップ
9 2と同構成で、信長と光秀が並ぶ。光秀が信長の背を見る形。
10 1と同構成で、光秀だけが花園に横たわっている。ズームアウト。


EDにおいては信長の顔は一度も描かれていない。一連のシーケンスの主体は光秀で、光秀が信長の後ろ姿を見つめる、というイメージが強調されている。
特に注目したいのは最初と最後のカットだが…ここを見るに、夢を見ているのは光秀であり、信長は光秀の視線(=「意志」)によって存在させられているもの、と連想させられる。最後に光秀だけが残ることが、光秀が主体であることを強調する。海辺の貝殻は、追憶のイメージか。


EDが光秀の夢っぽいから本編もきっとそうだろう、というのは短絡的すぎるかもしれない。
だが、ここまで強烈なイメージを持ったEDが、本編とシンクロすればラストはいかほどのものになるか、という期待もある。



落下する信長、地に佇む光秀

なぜ秘宝を集めるのか、そしてどうすれば終わりになるのか。


番宣イメージカット、第1話アバン、前期OP、後期OP、反復されるのは頭を下にして落下する信長のイメージである。
落下する信長は死にゆく信長、そして飛んでいた信長を落下させたのは光秀である。


20話でのやりとり。信長が茶室を去った後の光秀と利休。

利休:やれやれ、まるで疾風のようなお人だ。誰かがしっかり捕まえておかないと、あっという間にどこかに飛んでいってしまいそうな。
光秀:信長様を、あの人を捕まえておける者など、いるのでしょうか。


落下する信長を救うならば、信長を捕まえること、だ。


或いは、信長が落下したのは、夢を叶えるのが怖くなったから、なのかもしれない。
であれば、誰かが信長を支えて共に空へと再び飛び立たなければならない。


秘宝集めは、戦国世界での信長の天下取りの現代世界における再演、という面を持つ。
モラトリアム、再演の世界である現代世界において、秘宝集めを完遂することが、戦国世界で中断したままの天下取りを再開させることにつながるはずである。ならば、現代世界では、戦国世界でできなかったことをやり切る必要がある。誰かが信長をしっかりと捕まえて、共に天下を取るということ。


犠牲として秘宝を捧げる、という関係では不足なのだ。
光秀は信長と並び立たなければならない。
そして、現代世界で望みを果たし得たならば、戦国世界でもきっと同じことができるはずである。
信長はまだ落下していて、光秀は立ち上がって駆け寄れるはずなのだから。

戦国コレクション17話 劉備回 「名」と歪み

巻き戻って劉備回。
戦コレにおける「名」=秘宝という主題について、改めて見ると意味深な回だったなぁ、ということで色々まとめる。


ブタの呪い=秘宝

本話は、タエ婦人と家政婦・劉備が徐々に打ち解けていく、というお話として普通に見てうんうんとうなずける出来になっている。が、一見して、以下の点について疑問が残るのではないか。

・ 劉備になぜブタの呪いがかかっているのか。
・ 呪いと秘宝が関連しているのは何故か。
・ なぜ信長には呪いを解くことができたのか
  (劉備に解けなかったのは何故か)。


劉備が、人間とブタとの二つの姿を持つことは、タエ婦人の心を開く上での物語上のギミック要素である、と理屈をつけることはできる。が、ならば何故それは秘宝と関連しているのか。そして信長には解くことができたのか。


ブタの呪いは、明らかに本話の一つの軸である。これを読み解くにはどこを見るべきか。
ひとつ、本話で印象的なのは、ラストシーンでのタエ婦人と劉備のやり取りである。
タエ婦人の甥たちの前に立ちふさがった劉備は、「私は、この家を守る家政婦です」と名乗りを上げて、甥たちを追い払う。この後の会話、

タエ:ちょっとアンタ、さっきのセリフ、もっとマシにならなかったのかい
劉備:じゃあ、私は…この家を守る家政婦、兼、タエさんのお友達です!
タエ:ん、まあまあかね
劉備:はい。ありがとうございます!
   (Fin)

この、甥が登場するラストシーンの直前は、劉備の秘宝が信長に奪われる(=ブタの呪いが解ける)シーンとなっている。
タエ婦人によって一度訂正され、二回行われた劉備による名乗り。秘宝=呪いから解放された劉備は派手なアクションと共に堂々と、満足気に名乗りを上げる。
この充足は、タエ婦人との交流によってもたらされた。それは確かにそうだ。そして、並行して、秘宝を奪われた=呪いが解けたことによる充足でもある。
劉備の名乗りに秘宝がどう関わるのか。
本話中で、劉備の「名」はいかに語られたか。



劉備」という「名」

本話中では、劉備は献身的な家政婦として振る舞う。
劉備は、自分が家政婦であることに自覚的であり、度々「家政婦」という語を名乗りに使う。
アバンの派遣先の家で、「家政婦ですから、このくらい」と。
タエ婦人の家で、台所に入る際に、「私は家政婦です。雇い主の健康第一!」と。
夜食に添えた手紙で「家政婦・劉備」と。
そしてラストシーンでの二度の名乗りで。


だが同時に、劉備は「劉備」という名を負った人物でもある。
劉備自身が自らを「劉備」と口に出して言うことはほとんどない(電話に出た時に一度)が、置き手紙には「劉備」と書いており、また、タエ婦人に出した履歴書には「氏名:劉備 職歴:蜀国、乙女皇帝」と書いている。
また、周囲の人々も、彼女を「劉備」「劉備ちゃん」と呼ぶ。アバンの派遣先の家庭の奥さんも子供も、家政婦事務所のおばちゃんも。
ただ、タエ婦人一人だけは、彼女を「劉備」と呼ばなかった。


タエ婦人と劉備の初対面のシーン。
一度水をかけられて追い出されてから、再度ベルを鳴らす劉備

タエ:しつこい!
劉備:家政婦事務所から参りましたー
タエ:家政婦? そんなヒラヒラした格好でかい?
劉備:これ、私の履歴書と、紹介状ですぅ。
   (氏名:劉備 職歴:蜀国、乙女皇帝)
タエ:劉備? 蜀国の乙女皇帝?
劉備:はい、よろしくお願いします。
タエ:どこの映画の設定だい。この大嘘つき!
劉備:うぅ嘘じゃありません。本当に戦国世界で働いてたんですぅ。
   私を、必要としてくれる人のために。
タエ:なぁんてひどい偽善者ゼリフ。やりなおし!
劉備:わかりました、どこからやりなおしましょう…
タエ:全部だよ。
タエ:だいたい私は家政婦なんて要らないんだよ。
   さっさと帰りな。

劉備」「乙女皇帝」という劉備の「名」は、「映画の設定」のようだと言われ、虚事として拒否される。元は映画女優であったタエ婦人によって。
タエ婦人と劉備の関係において「劉備」の名は希薄化される、されてゆく。


家政婦クラッシャー・タエ婦人は、元女優という設定である。
彼女はブタの劉備に、

言葉なんてただの音、セリフと一緒で嘘ばかり。

と独白している。
タエ婦人のこの視線は、強大で異質な「乙女皇帝」「劉備」という「名」を虚ろなものとして否定する。
あらためて見れば、これは「正常」な態度なのだ。
街の、普通の人々が、若い女の子を「劉備ちゃん」と自然に呼んでいることの方が「異常」なのだ。


「異常」とは何か。家政婦を自認し、家政婦として生きている女の子が、「劉備」「皇帝」という「名」を負っていること。その「異常」さは、これまでの話に出た他の武将たちと比べてすら異質に見える。歪んでいる。ならばこれを「呪い」と呼ぶことに不思議はないのではないか。


解放と獲得


タエ婦人の家は、言葉を、「名」を解体する場であった、と言える。
「皇帝」の「名」を一笑に付した、劉備を「劉備」と呼ばなかった彼女の前で、劉備は家政婦として過ごす。家政婦として人に接する。彼女自身が見出した自らの本質を純化させてゆく。「劉備」の名を排除した、二人の場が構築されてゆく。
ではタエ婦人こそが、劉備の呪い=「名」を解いた、と言えるのではないか。


ならば、信長の来訪については、「信長がやって来て劉備の呪いを解決した」ではなく、「劉備の呪いが解けていたから信長に秘宝が奪えた」と言うべきだろう。
狂言回しの信長。劉備とタエ婦人の関係が結末に到ったことを祝福するように、不要になったギミックを回収して去る。


信長が一度ブタになって自力で呪いを解くシーンは、秘宝=呪いの特性を象徴的に示すシーンと言える。
ブタから戻った信長は言う。

小悪魔王のこのアタシが呪いなんぞに負けるもんですか

劉備と対照的な、信長の名乗り。現代にあっても、信長は「小悪魔王」の「名」を負い続ける。どこにも歪みはない。ならば、呪いを受ける道理はない。


あらためて、最後の劉備の名乗り。

私は…この家を守る家政婦、兼、タエさんのお友達です!

秘宝を、「劉備」の「名」を失った劉備は、「家政婦」に加えて「タエさんのお友達」という「名」を新たに得た。
家康、謙信と同じく、彼女もまたこの世に新たな「名」を得た者である。



ついで

そういえば、数えてみたのだが、劉備のタエ婦人訪問三日目に、劉備がブタとして初めて家に上がっている。
三顧の礼ネタはここか。

戦国コレクション19話 明智光秀回 誤った推理という希望

待ちに待ったというか、どう考えても転換点にならざるを得ない光秀回の前半。探偵ものという奇策で来たわけだが、探偵=真相を暴くもの、とすればこれほど「適切な」組み合わせもあるまい。
茶番劇、それも非常によくできた、と言わざるをえない。

アバン〜探偵登場

前話の予告で既に、光秀が探偵として出ること、「犬神家の一族」のパロディであるらしいことはとっくに分かっていたわけだが、その期待を裏切る形で、冒頭には現代の工場が映し出される。
工場の描写は奥行きを強調して為される。光源を中央に置いて、前景にパイプ、背景に眩しい工場の姿。普段の、キャラクターと背景という構造を拒否して、現代そのものの象徴をデフォルメ無しで描く様には、予告からは想像できないソリッドな印象を与えられる。


キャラクターの登場はその後。水を挟んで、前景に蘭丸と光秀、背景に工場というシーン。
強調されるのは炎。まさしく、第一話のアバンの直接のつづき。
そして、光秀の記憶障害が述べられ、フェードアウト。


Aパート、最初に映るのは水面である。白く、奥が見通せない、一見すると霧のようにも見える、不明瞭。
右手から現れる光秀たちの車。左の、下手への落下。
舞台のように横に広がる空間。川に映る景色。現実と川に映る姿の二重性。
灰色で絵画的、何か表面処理がされて写実的でない背景。
気だるげな明智探偵は、「ささいな気まぐれ」で「忌まわしい事件」に関わった、という。


事件は川原で起こる。川という境界の隣で。
色のないモブの警官。棒読みのセリフ。
夢的な舞台。


事件

被害者はホトトギスアヤコ(殺子)。メイコ(鳴子)、マチコ(待子)、の三姉妹と言う。
というわけで、明らかに被害者は信長である。
明智光秀が絡んだ殺人事件、と言えば史実からも信長が連想されそうなもので。製作者の側では、被害者を隠す気は全くない。そして、犯人が明智光秀であることも自明なのだ。
ならば、なぜそれが、事件=解かれるべき謎、として提示されているのか、そして、なぜそれを光秀自身が解かねばならないのか、それこそが問題である。


光秀は遺体と対面し、それを「首なし死体」と認識する。これは後でオチに出てくる。
モリ・ランティの登場、木林少年の不在。モリ・ランティは川の向こう側からこちらを見つめる。モリ・ランティという名は後で明かされるため、この時点では、覆面≒無貌のものでしかない。
境界の向こうから見つめる無貌の瞳。モリ・ランティを捉えるには川を越えなければならない。


この後は、屋敷での関係者への聞き込みとなる。
だが、メイコ、マチコ、ハザマ、ムラクモの身辺を洗うも、捜査は進展しない。

境界越え

捜査につまった明智は、首なし死体とモリ・ランティの覆面の関連性から入れ替わりの可能性に思い至る(トイレの鏡に自分の顔を映して)。境界の向こうからこちらを見つめるモノ、こちらの不安感をかきたてるモノに対して接近することは真実への唯一の道と言える。


オチを知っている状態で見れば、「入れ替わり」という明智の推理は明らかな誤読である。
だが、明智の推理が当たっていたとすればどうか?
殺されたのはホトトギスアヤコ=信長ではない、ということになる。
明智のやっていることは何か。
・ そこにある信長の死体の顔から目を背けた。
・ 境界の向こうに、無貌のモノ、入れ替わって生きていた信長を空想した。
・ 探偵として、「入れ替わり」という真相を選び取ろうとした。


川=境界を越え、逃げるモリ・ランティを追う明智
追う相手は信長ではなかったか。モリ・ランティの正体は信長で、死んでいたのは別の「誰か」だ、そういう真相への期待が明智にはあった。これはひとつの希望だ。モリ・ランティの仮面を外せば、その下には信長の顔がある、と。生きている信長に再会できる、と。
しかし、全ては茶番であり、結末は既に示されている。モリ・ランティは名前の通り森蘭丸である。


真相は、木林少年=モリ・ランティによって明かされる。

ちがう。モリ・ランティ教授の正体が木林少年なのではない。
木林少年の正体がモリ・ランティ教授なのだ。

モリ・ランティは、「村外れに住んでいる変人で、実践犯罪学の教授だって自称して」いる人物である。
彼が、明智探偵の助手ではなく、実践犯罪学教授として、明智から独立して真相を暴く。
明智は、探偵=物語上の真相を示す者、という特権を剥奪される。
明智探偵が暴くべき真相=光秀の望んだ真相、は真実ではない、と明かされる。


舞台

真実が明らかになった今、明智が対面するのは、死せる信長である。
ここで舞台が現れる。
観客の拍手が起こる。
役者は花束を受け取って去る。他の役者の仕事は終わった。
スポットライトは光秀だけを照らす。
うなだれている光秀はもはや明智探偵ではない、アバンにいたあの光秀である。
黒子=蘭丸に促され最後のセリフ。
最後のセリフは拍手でかき消され、視聴者には届かない。
それでいい。最後のセリフを届ける相手は最初から一人しかいなかったのだから。


現代世界で目覚める光秀。
光秀は劇の最後のセリフを繰り返す。
口にすればわずか数秒のこのセリフは、長い長い探偵劇と同じだけの重さを持つ。
その重さを語るには、あの舞台が、探偵劇という構造が必要であった。
そしてその果てに振り絞られた涙が。


まとめ


見ながら書いてたら、…ということになった。
茶番劇ではあるが、探偵・明智光秀と、実践犯罪学教授・モリ・ランティの真相をめぐる対決、と見ると、光秀の見たがった真相が見えていいのかも。もちろん最終的にはモリ・ランティも光秀の内面に生まれたキャラクターということになるわけだが。


一つ気になったのは、探偵ものにはつきものの動機が総スルーだった点。
動機については来週やるんだろうか。


公式ページの、光秀のキャラ紹介にある、

信長の片腕的存在。
文武に秀でているが、戦国世界において一廉の人物の証とされている秘宝を持っていないことに強いコンプレックスをいだいている。

ってところが、すごく劇的な設定である。
秘宝を持っていない光秀と、秘宝を集める信長。
なぜ、光秀が秘宝を持っていないのか? 理由はいろいろ考えられるが、いくつかのパターンは考えられるように思える。二者の関係、という点では、謙信・兼続と対比できるか。


まとめ:今川義元ちゃんが存外かわいい。

サミュエル・ベケット『ワット』 その1 ワット=What?

ワット

ワット


読んだ。
ベケットは初。「ゴドーを待ちながら」も観たことはない。


手に取ったきっかけは、ジョージ・スタイナー『言語と沈黙』で触れられてたため。
本書では、現代において、科学の言葉の拡大により文学の言葉が縮小していったこと、及び、大戦における惨事の経験により言葉が信頼できないものになったこと、が基調として述べられている。
この流れで、ベケット論「陰影と細心」において、ベケットをこの時代の体現者として論じている。


まあ、そんなこんなで、現代における言語の問題に触れる作家として読んでみようと思った次第。
小説では、『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名付けえぬもの』が三部作とのことだが、先に、その前に書かれた『ワット』を読んでみた。発表は三部作の後になるが、執筆はこれより前になる。


ワット(What)とノット(Not)

本作、あらすじとしては、主人公のワットが、謎の人物ノット氏の家に使用人として入り、そこを出るまでの話、となる。
なんのこっちゃである。


本作は、リアリスティックな作品ではなく、空想的、思想的、象徴的と言える。
神話的と言うのが正しいかもしれない。帯の文句には、

語り得ないものを語ろうとする主人公ワットの精神の破綻を、複雜な語りの構造を用いて示した現代文学の奇策

とある。


語り得ないものとは何か。
作中での、対象としての「それ」は、ノット氏(及び、その家)である。
また、語り得ないのは何故か。
ワットには、語るべきものとそうでないものの区別がつかないから。


ワットはある意味で非常に人間的であるが、全く人間的でない、と言える。
ワットは結晶された概念で、人間のあり得る一つの極の姿である。
それ故に、神話的な、あのノット氏の家にたどり着くことができた。語り得ぬノット氏と、語れぬワットは、表裏一体の存在である。そして、ワットから聞いた話を手記に遺した、という語り手たるサムもその一端を担う。
(p.135 において、語り手は、ワットをノットと言い間違えている)


本作において、概念上の中心はノット氏である。
ノット氏の家には、いつも必ず二人の使用人が居る。使用人はトコロテン方式で、一人が入れば一人が出ていく、というルールになっている。ワットは使用人として家に入り、そして一人、また一人と使用人が来たことで、家を出る。
後に、この時の体験を、ワットは病院においてサムに話す。そして語られた話をサムが手記にまとめた、と、そういう体裁になっている。
作中で示されるサムの姿は、作者のベケットを連想させるという。順序としては、ベケット=サムが、ノット氏という語り得ぬ距離にある特殊な存在を、語るための言葉の射程に収めるために、ワットという中間的な語り部アバター)を創出した、と見れる。語り得ぬものに肉薄するには、常人の言葉の持ち主では役者不足なのだ。そして語り得ぬものに肉薄できるだけの語り部は、常人の言葉を保ち続けることはできないのだ、と。


翻訳者、高橋康也氏の解説には、

溲瓶が溲瓶でなくなるこの不可解な世界の住人、この世界の不可解性の根源であり<結び目>(knot)であるノット氏(Mr. Knott)、神そのもののごとく否定語(not-this とか not-that)によってしか定義できぬ超越者、燃える藪のなからエホバがモーゼに明かした自己規定のごとく「われはあるところのものなり」(I am that I am)という同義反復によってしか表わしえぬ唯一者 ー この語るべからざる存在ノット氏について語ろうとするとき、ワットはバベルの塔を築こうとしたものたちと同じく言語の混乱という罰にみまわれるのである。
(中略)
ともあれ、氏はワットの執拗な<What?>という問いに対する永遠の否定的返事<Not>であることは確かである。あるいは、問うものと問われるものを結びつけたときに生じる言語遊戯のとおり、ノット氏の正体についてワットの得る答えは<what-not>(どうでもお好きなもの)なのかもしれない。

とある。


ワット→What 、ノット氏→Not 。そう見える。そういう意図だろう。
では、先にあるのはどちらか? What? という問いかけが先にあるのか、語り得ぬもの Not が先にあるのか?
先にあるのは問いかけである。「何を語るべきか」という問いかけ、語り得るものを全て語り尽くそうとする暴力的な試みの果ての、決して届かぬ終着点として仮構されたある一点が、語り得ぬ Not である。
語り得ないものを語ろうとしたことよりもまず、語れないことが問題であった。何も語れないワットの行き着く先、最後の到達点があのノット氏の家であった。
語り得ないものに近づくことで人は罰を受けなければならないだろうか? あまりに極に近づき過ぎれば常人ではいられなくなる、という点では確かにそうかもしれない。だが、いかに常人のふりをしようとしたところで、何も語れないという罰は最初から受けている。
無限の問いかけ What? はワットというアバターに結晶し、彼を問いかけの極へと送り出す。
我々は問い続けなければならない。例えそこに神がいなくても。


構造 語られる主人公


ワットにおける語りの問題は後に見るとして、ここでは、ワットの登場と退場を見る。
本作は、ワットーサムと、二重の語り手を持つ構造となっている。
また、サムによると

ワットは彼の話の始まりを最初にではなく二番目に語ったが、それと同じように話の終わりを四番目にではなく三番目に語った。二、一、四、三、これがワットの話の順序であった。そういえば、英雄詩の四行連句も似たようなひねった構造である。(p.255)

とのことである。
だが、ワットがサムにどう語ったかはともかく、読者は、サムによって再構成された「事実順」の時間構成によって一連の物語を追うことになる。


また、サムによる語りという体裁から、本作は基本的にワットに焦点を当てた三人称によって語られるが、最初と最後の、ワットの登場・退場のシーンにおいては、ワットがサムに語り伝えることができなかった光景が描かれている。明らかにここにおいては神の視点が取られており、ワットーノット氏の物語とは無関係な人々が描写されているのである。
ここにおいては、ワットの体験、サムの語りという体裁は無視される。これは、体裁は体裁であり厳密に守る気はない、と暗に示しているように見える。


では、なぜそのような不整合をあえて行ったか。
二重の語り手、という点を付随的・副次的なものと見れば、本作の構造はシンプルである。


・ 駅における「普通の」人々のシーンでワットが発見され(登場)、ワットが出立する。
・ ワットーノット氏の物語
・ 駅における「普通の」人々のシーンにワットが帰還し、そして人々を場に残してワットが退場する。


最初と最後のシーンでは、語りの焦点は駅の「普通の」人々にある。
最初のシーンで、ワットは、ハケット氏、ニクソン夫妻によって発見され、彼等の会話上の叙述によってその最初の性格を形づくる。彼等は遠景からワットを見て、要領を得ない会話をするだけで、地の文はワットを一切描写しない。
ハケット氏は何故か、よく知りもせず、遠くから見ただけのワットに対して非常に強い好奇心を抱く。
ニクソン氏は

まことに奇妙な話なんですが、あなた、隠さずに言ってしまいますとね、やつに会ったり、やつのことを思ったりすると、わたしはいつもあなたのことを思い出すんですよ、そしてあなたに会ったり、あなたのことを思ったりすると、いつでもやつのことを思い出すんです。どうしてなのか、さっぱりわからんのですが。(p.22)

ハケット氏に言う。
ここにおいて、「語り得ない」存在はワットである。ハケットとワットは何かしら近しい存在であることが暗示される。だが、明瞭な回答はない。
ハケットの視点を共有した読者は、明確なイメージを持たないが、自分に近しい何者か(What)としてワットを発見する。
だが、

あのひとがなにをしてたって、とニクソン夫人は言った。どうやって暮らしてたって。どこの生まれだって。どこへ行くところだって。どんな風采だって。そんなことなんの関係があるんです、わたしたちにとって?
わしも同じ質問を自分にしとるんじゃ、とハケット氏は言った。(p.28)

という疑義は残り、決定的な関連性を見いだせぬまま、駅の人々からワットへと焦点は移動する。
時間は夕暮れ時。ワットーノット氏の物語は夜に始まる。


ワットーノット氏の物語、中身は飛ばして、そのラスト。
出立は夜にやってくる。ワットは、後任のミックスの突然の来訪に立ち会い、ノット氏の家から立ち去る。ここに見られるのは個人の意志・思想を超えた厳然たるルールである。
家を去るワットの心情はいかばかりか。細かい検証は後にまわすが、「彼が待ち望んでいる休息と暖かさ(p.262)」「されこれでわたしも釈放だ、とワットは言った、どこへ行こうと自由の身というわけだ。(p.281)」という記述から、解放された、役目を果たした、というニュアンスは伝わってくる。
解放されたワットはどこへ? ワットは駅へと向かう。駅には「普通の」人々がいる。


駅についたワットは待合室で夜を明かす。その後、徐々に視点は「普通の」人々へと移っていく。ワットについての描写は、彼が「終わり」までの切符を買う所で終わっている。彼が汽車に乗る様、汽車が出発する様は明確には描かれない。作品の(補遺を除いた)ラストは、駅の「普通の」人々が、夏の日の朝の景色を見つめるところで終わる。


駅の人々の中で、注意すべきは駅長のゴーマン氏である。彼はラストシーンの場の実質的な主としてふるまう。
彼は「非常に長い腕をもっていた」と描かれている。そしてそれは、ワットが家から駅に向かう途中で遭遇した、「男あるいは女あるいは司祭あるいは尼僧」と言われる「深夜の彷徨者」と、身体的特徴の上で合致する。
「深夜の彷徨者」とは何者か? 彼の正体は結局明かされない。ワットと会話をするわけでもなく、ただワットの視界に現れ、ワットとの距離を保ったまま消えてしまう。

ワットは、なぜか、この幻覚を特別に興味深いものと見なしているようであった。(p.270)

「深夜の彷徨者」は、まるで、最初に駅に登場したワットの鏡像のようではないか。突如あらわれて、何者であるかはっきりと確かめることはできないが、何故か興味を引かれる。ちょうどハケット氏がワットを見たように、ワットは「深夜の彷徨者」を見る。視線の移動による焦点の移動。と、見れば、ハケット氏→ワットという焦点の移動と同じく、ワット→ゴーマン氏という焦点の移動が最後に行われた、そう言うことができるだろう。
ワットの語りを引き継いだのが語り手のサムであるとすれば、焦点=読者の視点をワットに渡したのがハケット氏であり、ワットから引き継いだのがゴーマン氏である。


本作において、語り手として、旅人として、の二つの意味で、ワットはノット氏の家(=異界)へと旅立ち、そして帰還する。彼は、「普通の」人々(ハケット氏、ゴーマン氏、サム)の探求(What?)を一身に背負い、その極へと至る。その姿は、さながらキリストのようである(p.188で直接的にそう描かれているように)。
最後の4章においては、山羊のモチーフが登場する。ワットがノット氏の家から駅に向かう途中には、「驢馬または山羊」がいてワットを見送る。ラストの、ワット退場後のシーンでは、以下の叙述がある。

なんのかのと言うたとて、とゴーマン氏が言った、人生ってもんはまんざら捨てたもんじゃない。彼は両手を高々と上げて、ひろげ、礼拝のしぐさをした。それからその手をふたたびズボンのポケットに戻した。なんのかのと言うてもじゃ、と彼は言った。
またライリーおやじのとこの山羊だな、とノーラン氏が言った、ここからでも臭いでわからあ。
それなのに神はいないなんて言うひとがいるんですからね、とケース氏が言った。
あまりと言えば途方もないこの言いぶんに、三人はそろって大笑いをした。

この後、三人は、「で、わたしたちの友人は?」と言ってワットを探すが、既にここにワットは居ない。
朝の景色を描いて、作品は終わる。
山羊は、神への犠牲を連想させる。そして、人々の代表として語り得ぬものに切迫したワットにも相通ずる。


語り得ぬものノット氏、語りの極にあって苦しむワット。本作は語り得ないものが、どれほど語り得ないものなのか、をワットという媒介を通すことで語った、と言えるだろうか。語り得ぬもの、をキリスト教の神とみなしていいのだろうか。神だから語り得ないのか、語り得ないから神と呼ばざるを得ないのか。
「神はいない」と言明したとしても、言明行為の不可能性の背後には、常に語り得ぬものが待ち構えている。語り得ぬものに名をつけるなら「神」の語をもってするしかない。あるいは、神は、ただ「語り得ぬ」ということのみをその定義にしなければならないのかもしれない。


あとがき

しんどかった。
まだ本作で書くことがありそう。ワットの語れない問題とか、各挿話(リンチ家、ナッキバル氏の三乗根)。
その2として書くかもしれないし、他の作品の後にするかもしれない。

「スローターハウス5」 戦争を語る

映画版の方。

スローターハウス5 [DVD]

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記憶における物事の連続性は、時間によってではなく主観的な関連性によって決定される……みたいなことを念頭に置いて見る映画だなぁと。


本作は、主人公のビリー・ピルグリムの一人称的な視点から描かれる、彼の半生記のようなものである。主要な事件としては、第二次大戦中のドレスデン空爆を扱う。
そういう意味では本作は確かに戦争映画である。だが、そこにあるリアリズムは、その戦争を、終戦後本国に戻った彼が回想する形で描くことによって担保される。

戦争という題材、語ることのリアリティ

本作の主人公は、ほとんどコレといったアクションを行わない。そういう意味では、映画における「魅力的な主人公」とは到底言えない。
彼は語り部である。ただただ、戦争という状況に巻き込まれた自分を語る。ビリーの人生という一つの軸を通して、現代が過去を語る、そういう映画である(そして過去と未来を超越したある地点「トラルファマドール星」にたどり着く)。


作中でビリーは一度も銃を手に取らず、誰かを殺すこともない。
作品冒頭で彼は捕虜になり、後は捕虜として施設に入れられ、ドレスデンに移送される。
そして、ある日、ドレスデン空爆を受ける。
防空壕から出た彼等は、一面の焼け野原を目にする。


ここに劇的な事件は何もない。
主人公が密かにドレスデン空爆の情報を入手して人々を避難させようと頑張った、だとか、ドレスデンで知り合った現地の少女を失って哀しんだ、だとか、そんな劇的な展開は一切ない。
ドレスデン空爆で焼かれた。たまたまそこにいたアメリカ兵捕虜たちは生き延びた。それだけである。


空爆に至る前は、ドレスデンの街並みは丹念に映される。平和で美しい街並み、移動する米国兵捕虜にじゃれつく子供たち。はりきるドイツ人少年兵と、彼に笑いかける少女。
空爆の後、少年兵は絶叫し、誰かを探しに走り出し、火に包まれた建物に駆け入ろうとして止められる。
彼の絶望は劇的である。分かりやすい。
だがビリーは空爆を経て何を思ったのか? そこに分かりやすい言葉も行動もない。


ビリーとドレスデン空爆との関係は、現代における彼がそれを思い出す、そのシチュエーションにより導かれる。
空爆の前後の、作品のシーン構成は以下となっている。


(現代)ビリーの飛行機事故
(過去)ドレスデンへの移送
(現代)ビリーの妻の自動車事故、ビリーの手術
(過去)屠殺場での生活
(現代)手術後のビリー、歴史家との会話
(過去)ドレスデン空爆直前〜空爆
(現代)退院後、一人で家に戻るビリー
(過去)空爆後、焼け野原を目の当たりにする
(現代)長男との会話、トラルファマドール星への移動
(過去)空爆後の後片付け作業


ドレスデンでの体験は、現代のビリーの飛行機事故の体験の関連付けられて想起されている。
示唆的なのは、病院にいた歴史家の言葉であろう。歴史家は、ドレスデン空爆の死者数は連合軍の500万余の死者数に比べればものの数ではない、と言う。この場面で、ビリーと歴史家が論争を開始することもない。ビリーが歴史家を避難することもない。ただ、ビリーは映画の語り部としてドレスデンの街並みを思い出す。そして視聴者は、そのビリーの記憶を共有する。
ビリーに思想は無い。ただ、他人の思想を前にした時、自分が目にした現実を思い出す。それがビリーのリアリティ、この映画のリアリティである。


退院後、妻を失ったビリーは犬だけが待つ家に帰る。この空虚は、焼け野原となったドレスデンの空虚と重なる。


ビリーが出会う、もう一人の思想を持った人物は、軍に入った彼の息子である。
空虚な家で、無気力にベッドに横たわるビリーと息子との対面。
共産主義との戦いについて語る彼に、ビリーは何も言わない。
ただ、彼は、息子が去った後、トラルファマドール星に連れ去られる。


トラルファマドール星


トラルファマドール星に行った後の流れは以下となる。


(現代)トラルファマドール星にモンタナが来る
(過去)空爆後の後片付け、ダービーが銃殺される
(現代)トラルファマドール星でモンタナとイチャイチャする、
    トラルファマドール星についての講演、講演中にラザロに暗殺される
(過去)ドレスデン、ドイツ兵が引き上げた後の混乱
(現代)トラルファマドール星で、モンタナに子供が生まれる。
    トラルファマドール星人に祝福される。(終幕)


トラルファマドール星には現在も過去も未来もない。
四次元の世界には、主観的な時間があるだけである。
言わば、自由な語り部のための立脚点としての舞台装置。
空想的な恋人・伴侶のモンタナ。モンタナは生まれた子供の名を「ビリー」にする。
永遠の空間トラルファマドール星。人間の永遠性は、子孫を残すことによって実現される。トラルファマドール星で生まれた子供は、二重に意味づけされた象徴的な永遠、と言える。


虚飾めいた、トラルファマドール星人による子供への祝福。
トラルファマドール星では何もかもが空虚だ。
だから、ポルノ雑誌に出てくるような女優・モンタナが肉体をもって現れたりする。


ビリーは、語り部は、トラルファマドール星に行かなければならなかった。
歴史家の、息子の提示する、意味づけされた歴史・世界にはいられなかった。
歴史を語る「言葉」としての歴史に対しては、光景を、映像を、記憶をもって相対する。それがこの映画である。
だが、トラルファマドール星はビリー個人のものでしかない。他の誰かと共有できるものではない。連れていけたのは犬と、空想的な恋人だけである。


作家、あるいは、映画の作り手は、戦争についての意味付けや、思想を語ることはしていない。ただ、トラルファマドール星という全ての記憶を語れる装置を提示し、それを通してある事件を語るというやり方を提示したまでである。
人々が個々人のトラルファマドール星を持つ、それはコミュニケーションの限界を提示するものかもしれない。
あるいは、他人がその人のトラルファマドール星を持っているという発想は、コミュニケーションという幻想を抑制する機能を持ちうるのかもしれない。


本作は、戦争映画と言うよりは、戦争をどう語るかの映画と言うべきだろう。